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NGOからマーケティング会社へ

普通、逆なのでは。

これから社会貢献を目指す後輩がいたら絶対私と逆の道で行くことをおすすめするけど、結果この順序でよかったと思える。
自己紹介に代えて、一見一貫性のないモザイクみたいなキャリアを振り返ってみた。

キャリアにハクを付けたかった新卒開発コンサル時代

キャリアにハクとか、キャリアのキの字もまだできていない頃から考えている前のめりな子でした。
大学に入る前から発展途上国に係る仕事がしたいと思い、大学でUNに入ると決め、UNに入るには修士号が必要だから修士号を取る。でもUNに入れるような途上国開発では名の知れたいい大学院に入るには実務経験があった方がいい。それだけでを考えて選んだ会社だった。

開発コンサルタントとは、主に国の補助金で国に代わって発展途上国の開発事業(土木や農業、人々の能力開発まで分野は多岐にわたる)を行う、いわば途上国事業のなかでもフィールドに何か月もいられる「ゲンバの仕事」を行う役割。
5人しかいないような会社だったので、社長の鞄持ちでたくさんの途上国に連れて行ってもらい、実際中身は大したことないけど「環境社会影響調査担当」とか、大したことをしているような役割をもらい、CV上は着々とプロジェクト経験を積み重ねていった3年半。

CVにそれなりのハクがつき、大学院に行くお金が貯まったらやめようと思っていたので特に思い入れもなく入った会社だったけど、周りの人たちが本当に良くしてくれて、1番純粋に何の駆け引きもなく仕事を楽しめていた毎日だった。
ちなみに仕事と言っても現場では議事録だけしっかり書いて、あとは各国の子どもたちの写真をひたすら撮って楽しんでいるだけ、といういま考えたら給与泥棒以外の何モノでもないお気楽社員。
そして希望の大学院に受かり、本当にスパッと辞めた4年目の夏。まだまだ自分勝手な20代。

本当の意味での使命感が芽生えたNGO時代

大学院が修了し、私が進んだのはUNではなく日本企業の新興国事業のコンサルティングを行うNGOでした。UNへの憧れはあったものの、競争の激しさに躊躇し、挑戦をせずに終えただけ。だけど、ここのNGOで出会った皆さんがスキル面でも精神面でも本当に鍛えてくれた。

周りは全員年上であるもののその差は5歳以内くらいで、各自大手商社、外資コンサル、外務省、外資証券・・・などそうそうたるキャリアの持ち主で、大手で社会人力を身につけてからNGOで社会貢献をしたいというまぶしいくらいしっかりとした意見を持つ仲間でした。そして、その社会人力たるや・・・アウトプットの質がいま振り返っても異様に高いハイレベル人材ばかりの中で、自分の出来なさ加減に落ち込む毎日。同じ年くらいなのにこうも違うのか、とキャリアの滑り出しをいかに自分が棒に振っていたかをただただ痛感していた。

そんな彼らに議事録の取り方、レポートの書き方、プレゼン資料の作り方、プレゼン方法、見積もりの考え方などなど、5人の会社では学ぶことのできなかった新卒研修を1からやってもらったと言っていいほど、鍛えられました。
そしてもう1つ鍛えられたのがプロジェクト・マネジメント力。団体のトップがちょっとアレだったので、人材の回転率が異様に高く。2年目を迎える頃にはあっという間に古株になっていて、経験値とか関係なく問答無用でプロジェクト・マネージャーに。矢面に立つと視野が広くなり、弁も立つようになり、危機感が高くなるので見るものすべてを吸収してアウトプットの質も飛躍的にアップしていく。
途上国の現地パートナーと密にやり取りをしていき、代表者として地域の住民に会うことも多くなり、大げさかもしれないけど「この人たちの生活を良くできるかは自分次第なんだ」と本気で思い、キャリアのためとかではなくこの人たちの役に立ちたいと、本当の意味での使命感に芽生えていた。

サムネがアレですが、その頃思っていたことのまとめ


ただ同時に、おそらくNGOでできることはものすごく限られるだろうと気付いたのもこの頃。
ケニアやタイ、ベトナムといった先に発展を始めた途上国では、現地の人自ら欧米の国から資金援助を得て、太陽光発電や農業灌漑などのスタートアップを起業。日本政府から資金援助を受けている私たちNGOが「オールジャパン」と称して日本製の高い商品を入れるために事業計画を何度も練り直している間に、地元スタートアップ企業は安価な中国製品を使って送電し、地場の携帯を使った送金サービスと連動させた支払いサービスを展開し、インドからエンジニアを呼んであっという間に農村を電化していった。資金援助からサービス化まですべて企業同士の契約だけでやり切り、そのスピードは日本の政府援助の1/3以下だったと思う。
社会貢献を理由に寄付または低金利で資金援助を受けているスタートアップが多いから「株式会社NGO」と揶揄されることもあったけど、これからは事業を通した社会課題の解決が主流になるだろうと確信できるくらいの変化だった。もちろん日本企業も同じように取り組んでいたけど、原材料も工場もそれなりの質を求め、人件費も高い日本企業は途上国の低所得者層向けの価格での販売ではとても黒字化の兆しが見えない。「現地での事業」という土壌では、おそらく戦えないだろう。

その中で自分ができること・やりたいことを考えたときに、「現地での事業」では戦えないけど、「現地での事業」に付加価値を加えることはできるだろう、と。もちろん、電力を売りたいわけではない。電化や効率的な農業を通して可能になった事業の結果生まれた製品や農産物を日本で売るとき、それが売れる機運はつくれるかもしれない。
たとえばインド生まれのオーガニックコットンでつくったTシャツを売るとき。ユニクロの5倍以上の値段がするかもしれないけど、なぜそれを買いたいと思うのか。その理由や、それを買った方がいいと思う空気づくりができたら。
それを「マーケティング」と呼ぶことを知ったのは、この本を読んででした。


もはや半分くらい記憶がない「今」マーケッター時代

そして30歳で一念発起して大きくキャリアをきって、いまのトライバルメディアハウスに入社。マーケティングに関しては全くの素人なので、もう新卒からやり直すつもりで入り、来た仕事は何でもし・・・何でもし・・・た結果、つねに10件くらい案件を持っている状態になり、電光石火のスピードで日々が過ぎ去り、4年目になった今、2年目と3年目の記憶はおぼろげにしかありません。
人生で1番働いたと言い切れる(言い切りたい)3年でした。でも、記憶になくても力にはなっている。きっと。

35歳手前の今、ようやくマーケティングのノウハウが社会に還元できるくらいになったので、それをもう出し切りたい。これからはマーケティング/ビジネス視点で見る「社会課題解決」について、ここのnoteでアウトプットしていきます。

きまぐれに、つづく。


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