宝塚版と東宝版の比較  ~ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」~

【Attention】
 あくまで、個人の感想による比較です。内容に触れる為、ネタバレになる部分もあろうかと思いますので、閲覧の際はご注意ください。
 また、比較の為に宝塚歌劇版を【宝塚版】ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」は主催の一つである東宝から【東宝版】として記載します。

宝塚版ライブ配信
5月23日(日) 視聴
東宝版ライブ配信
6月6日(日)  視聴

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 ロミジュリは宝塚版が初演された時に1度見たきりだ。
 今回、東宝版に推しが初出演するということで、上演されるのを楽しみにしていたわけだが、折しも宝塚歌劇団星組公演の東京宝塚劇場大千秋楽がライブ配信されるということを知り、作品の復習を兼ねて見てみることにした。
 「ロミオ&ジュリエット」は2010年に柚希礼音さん主演で上演されたものを梅田芸術劇場で観劇したが、前すぎて記憶が朧げなため、とても新鮮な気持ちで宝塚版をライブ配信で鑑賞した。(過去作の情報を確認していたら、2010年版のキャストが豪華すぎてビックリ!)
 そして、宝塚版を鑑賞した上で東宝版のロミジュリのライブ配信を鑑賞したわけだが、同じ作品のはずなのに受ける印象が所々違うことが面白かったので、個人的に気になった点をまとめていこうと思う。


 宝塚版と東宝版の大きな違いは、まず第一に時代設定があげられる。
原作の時代設定に忠実な宝塚版と近未来設定の東宝版。
 煌びやかで華やかな宝塚らしい衣装とは対照的に、東宝版はスタイリッシュでモダンな衣装展開が印象的だった。
 また、東宝版は近未来設定の為、スマホやAEDと言うワードが普通に飛び交う展開に、最初はポカンとなった私がいた。
 「スマホを持っていたら、ジュリエットの仮死作戦ばっちりロミオに伝わるんじゃね?」と無粋なことを考えていたが、まさかのスマホ紛失という展開に「あぁ~…なるほど、それだとスマホも意味がない」と納得した。

 一方、宝塚版の舞台は中世ヴェローナ。
個人的に宝塚の醍醐味の一つは、娘役さん達の煌びやかな衣装や装飾類だと思っているので、美しい衣装は最高に目の保養だった。特にキャピュレット夫人とモンタギュー夫人のお衣装が気品に満ちて美しかった。

 舞台セットも、よりしっかりと作りこまれている宝塚と、いかようにも状況設定を動かすことの出来る東宝版という違いがはっきりしていたように思う。
 しっかりと作りこんでセットから中世の世界観を作り出す宝塚版に対して、過度に作りすぎず、照明や装置転換で観客に想像力に訴えかける東宝版。なるほど、時代設定が変われば舞台装置もこれほど違ってくるのかととても大変興味深かった。


 さて、では演者はどうだったか。
色気という点では、やはり宝塚版の方に軍配が上がるように感じた。
 100年以上の歴史を持つ宝塚歌劇団には、歌舞伎や能と同じように宝塚歌劇の様式美や形式美が確立されていると個人的に考えている。女性が男性を演じる宝塚の男役は、ある意味で女性の理想像の集約だ。中性的な見た目の華やかさに、線の細さ、女性がかっこいいと感じる男性的な所作。実際の男性がどうかというのは問題ではなく、理想としての男性像が確立されている。だからこそ、流し目一つさえも完璧に計算されつくしていて美しく、そこには宝塚イズムが集約されている。
 それは、歌舞伎の女形にも通じるものがある。男性が女性を演じる女形はまずは骨格の克服から始まる。所作だけでなく、肩の落とし方、座り方、顔の角度等、あらゆる点に気を使い、美しい女性を体現している。それは、江戸時代から連綿と続く型の継承と鍛錬の賜物であり、宝塚もまた、男役の型の継承が行われきたのだと思う。

 もちろん、役者本人が持つ色気もあるが、役を演じることにより醸し出される男役の色気は宝塚イズムのなせる業だ。
 特に、ライブ配信で鑑賞したロミジュリ公演ではティボルトの色気が凄まじかった。東宝版は推しがティボルトを演じるので、他の役柄よりもより注視していたからなのかもしれないが、とにかくティボルトの色気がヤバかった。苦悩する表情一つとっても醸し出される色気。これは宝塚の男役さんに共通するのだが、「匂い立つ」という表現が似合う色気だ。出そうと思っても簡単に出せるものではなく、色気の中に見える品は、宝塚でのキャリアがあってこその色気の様にも感じる。
 この宝塚の男役さんが持つ品のある色気を男性役者が表現するのは、なかなか難しいのかなと個人的には思ってしまう。
 東宝版の感想版をまとめたメモを見返していると、「ティボルトがセクシーだ」と書きなぐっているのだが、個人的に「セクシー」と「色気」はニュアンスが異なる。
 「静」と「動」の感覚に近いのかもしれないが、「色気」は静かに立っているだけも匂い立つ品を伴った気配に対して、「セクシー」は歌い踊る躍動さに見えるものの様に感じる。


 一方、初々しさという点では、東宝版に軍配が上がる。メインキャストの年齢層が若い点も挙げられるが、ジュリエットを演じる伊原六花さんや天翔愛さんはミュージカル初出演の女優さん。対して、宝塚版はのジュリエット役の舞空 瞳さんは、トップ娘役として舞台に立ち、宝塚の娘役として日々のお稽古に励んでいる舞台人なので、安定感が違う。忍んできたロミオとの逢瀬中に、ばあやに対して「すぐに行くから!」と少しだけドスの聞いた声で返している所とか、ただ可憐で可愛らしいだけじゃないジュリエットは大変好印象だった。
 そんな宝塚版に比べると、ただただ一生懸命に全身全霊で役を生きるWジュリエット達の姿は、初出演の初々しさがより際立つように思う。しかし、そのひたむきさは愛に生きたジュリエットの姿に重なり、ロミオへの愛に殉じたジュリエットを見事に演じていると思う。何より、瑞々しい感性が弾けるジュリエットのロミオとの愛を応援したくなるのだ。


 見比べてみて一番ビックリしたのは、物語におけるジュリエットの出生の違いだ。
 宝塚版は、愛は無いにしてもちゃんとキャピュレットご夫妻のお子だったのに対して、東宝版はまさかのジュリエットがお母様の不義によって授かったお子で、キャピュレット卿とは血が繋がっていない展開に目ん玉が飛び出るくらい驚いた。(何よりお母様がジュリエットに対してカミングアウトしていることに衝撃が走った。)

 キャピュレット卿の独唱で「娘よ」がある。パリス伯爵との結婚を嫌がるジュリエットの頬を思わず叩いてしまった後で、「いつか分かりあえる日が来る」とジュリエットへの想いを歌う歌詞だが、宝塚版を見た時に、この後の悲劇を知っていて、その日が来ないことも知っているこちらとしては、不器用な父親のことが悲しくて号泣したのだが、東宝版は、妻の不義によって生まれた子と知りながら、我が子として愛してきたっていうとんでもなく重たい設定が付け加えられていて…直前にジュリエットに「私の本当の親じゃない」と放たれた言葉が余計に辛くて、「キャピュレット卿…」とかける言葉が見つからなかった。
 碌でもない親の様に見えて、実際は娘の幸せを願っているにも関わらず、どこまでもすれ違ってしまった父娘が悲しすぎる。
 娘を愛しているという点では両方とも不器用な父親像が確立しているが、東宝版のジュリエットは、両親から愛のない結婚がどんなものなのかをより明確に突き付けられていて余計にロミオとの愛に傾倒していったのかと思ってしまう展開だった。


 両作品に共通するのは、キーパーソンとしてのロレンス神父と乳母の存在ではないだろうか。
 若い二人の愛を応援してくれる数少ない大人。
ロミオから結婚の意思は変わらず、今日の午後に教会へ来てほしいという伝言を受け取った後のばあやの歌が涙腺を崩壊させる。「あの子はあなたを愛している」は、乳母のジュリエットへの深い愛情が表現されていて、「自分の子供だ」と言い切る姿に涙が止まらない。
 同様に若い2人が悲しいすれ違いにより命を落としてしまった後のロレンス神父の「何故」が胸に迫る。どうにか若い2人が幸せになる道を模索していたのに、運命の悪戯で2人ともが命を落としてしまったクライマックスに歌われるこの歌が、物語の核心に迫っていく。
 宝塚版でそれぞれの曲を聴いた時に「これは…めちゃめちゃ歌が上手い人じゃないと務まらないぞ」と思って、お2人の歌唱力に度肝を抜かれていたのだが、それは東宝版も一緒でロレンス神父と乳母の歌声が本当に素晴らしかった。
個人的に宝塚版の乳母役の有沙 瞳さんの歌声がとても心に響いてきた。


 そして、個人的に驚きと共に納得したのが、初夜が明けロミオがヴェローナを旅立たなくてはいけなくない朝の別れのシーン。
 東宝版が、上半身裸のロミオと肩を露わにしてシーツを巻きつけているジュリエットの姿に「あぁ…そりゃそうだ。男女キャストだからこの演出が出来る」と妙に納得してしまった。もちろん、宝塚版もこの別れのシーンはとても切なくて悲しくも美しい別れが表現されているわけだが、上半身裸のロミオにジュリエットの背中が露わになっている東宝版は、より男女の仲を客席に想起させる。宝塚版が個人的にマストだった私としては、驚いたと同時に男女キャストならではの初夜の表現だと納得した。そして、後ろ髪を引かれながらも新妻を残していかないといけないロミオの葛藤が素晴らしかった。ロミオがジュリエットの額に自分の額を当てて目を閉じているシーンがただただ美しい。この場面を見てようやく自分の中で宝塚版と東宝版の違いが明確になったように思う。
 どちらがいいか悪いかではなく、与えられている環境や素材が違えば、同じ演目であっても見えてくるものが違うことが面白い。
 時代設定などが違う程度に思っていたが、演者が違うことによる演出の違いを目の当たりにした。


 けれど、どちらにも共通して言えるのは、作品としてのクオリティの高さだ。
 東宝版のロミオ役黒羽麻璃央さんが、イベントで「小池先生の演出はとても細かいところまで指示がある」と話していたのが印象的だった。舞台が観客からどう見えるのか。どのように倒れたら美しいのかそういった観客には分からない細かい部分まで指示されていたと聞いて驚いたのを覚えている。と同時に、とても納得した。
 観客は舞台を観に行った際に、少しでも違和感があれば舞台の世界からスッと現実へと戻ってきてしまう。そして、一度現実に戻ってしまうと再び舞台の世界へ赴くことは難しい。1つの違和感が徐々に観客の心理を侵食していってしまうからだ。
 一瞬たりとも違和感を感じさせずに2時間半~3時間の舞台で観客の心を引き付け続けるのは、やはりトータルで舞台をコントロールする演出家の手腕が大きいのではないだろうか。そして、そんな演出家の高い要望に演者が応えることで舞台のクオリティはどんどん上がっていく。
 計算しつくされた舞台は見ていて大変心地いい。


 まもなく、東宝版は大阪公演の幕が上がる。無事に今作のカンパニーが全公演を終えられることを祈っている。

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