見出し画像

③貴族政治と国風文化2-2

2.国風文化

浄土の信仰

摂関期の仏教は、天台真言の2宗が圧倒的な勢力を持ち、祈祷を通じて現世の利益を求める貴族と強く結びついた。神仏習合の風もますます盛んで、在来の神々を仏と結びつける本地垂迹説❶も生まれた。

❶神は仏が仮に形を変えてこの世に現れたもの(権現)とする思想で、のちには天照大神大日如来の化身と考えるなど、それぞれの神について特定の仏をその本地として定めることが盛んになった。仏教を真似て神像を作ることも行われ、僧形八幡神像は、その一例である。

また、怨霊や疫病の災厄を逃れようとする御霊信仰も盛んであった。

❷北野神社や祇園社(八坂神社)の祭りなどは、現来はこの信仰から生まれたものである。

現世利益を求める様々な信仰と並んで、来世での幸福を説いて現世の不安から逃れようとする浄土教が新たに流行してきた。浄土教は、阿弥陀仏を信仰し、来世において極楽浄土に往生することを願う教えである。その思想は早くから伝わっていたが、10世紀半ばに空也が京都の市中でこれを説き、少し遅れて源信(恵信僧都)が「往生要集」を表して念仏往生の教えを説くと、末法思想❸によって一層強められた。

釈迦の死後、正法像法の世を経て末法の世が来ると言う説で、当時、1052(永承7)年から末法の世に入ると言われていた。

盗賊や暴力が横行し、災厄がしきりに起こった世情が、仏教の説く末法の世の姿によく当てはまると考えられ、来世への望みが一層強まった。そして、慶滋康胤の「日本往生極楽記」を始め、めでたく往生を遂げたと信じられた人々の伝記を集めた往生伝が作られた。

●「往生要集」の序文 現代語訳
そもそも、 極楽に往生するための教行は、 濁りはてたこの末の世の目とも足ともなるものである。 僧も俗も、 身分の高いものも低いものも、 誰かこれに従わぬものがあろうか。 しかし、 顕教や密教のみ法はその説くところがさまざまであり、 事 (有相の行) や理(無相の行) に依る業因は、 その行が多い。 それらは智慧がさとく、 努力を怠らぬ人は、 むずかしいと思わないであろうが、 私のような愚かなものは、 どうして進んで修行することができようか。 こういうわけであるから、 念仏の一門に依って、 少しばかり経論の肝要な文を集めた。 これをひもといて、 念仏の行法を修めると、 覚り易く行じ易いことであろう。

空也像
「市の聖」と呼ばれた空也が、民間で念仏行脚している姿を表したもの。口に「南無阿弥陀」と唱えると、その1音1音が阿弥陀仏になったと言う伝説を彫刻化したもの。鎌倉時代中期の康勝の作。(木造、高さ117.5cm、京都六波羅蜜寺蔵)




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?