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③貴族政治と国風文化 4-1

4.院政と平氏の台頭

源氏の進出

11世紀になると、開発領主は、私領の拡大と保護を求め、土着した貴族に従属したり、在庁官人になる事などにより地方の武士団として成長していった。更に中央貴族の血筋を引くものが地方武士団を広く組織して棟梁となり、大きな勢力を築くようになった。
中でも、清和源氏源満仲は、摂津に土着していたが、その子の頼光頼信兄弟は摂関家に近づき保護を得て、棟梁として勢威を高めた。1028(長元元)年、上総で平忠常の乱が起こると、頼信は房総半島に広がった乱を鎮圧して、源氏の東国進出のきっかけを作った。
また、陸奥では、豪族安倍氏の勢力が強大で、国司と争っていたが、源頼信の子頼義は、陸奥守として任地に降り、子の源義家と共に東国の武士を率いて安倍氏と戦い、出羽の豪族清原氏を助けを得て滅ぼした(全九年合戦)。その後、陸奥・出羽両国で大きな勢力を得た清原氏一族に内紛が起こると、陸奥守であった義家が介入し、藤原(清原)清衡を助けて内紛を平定した(後三年合戦)。
これらの戦いを通じて源氏は、東国武士との主従関係を強め、武家の棟梁としての地位を固めた。
東国武士団の中には義家に土地を寄進して保護を求めるものが増えたため、政府が慌ててこれを禁止したほどである。また、義家の去った後の奥羽地方では、陸奥の平泉を根拠地として、藤原清衡の支配が巨大となった。
清衡基衡秀衡の3代100年に渡って奥州藤原氏は、金や馬などの産物の富によって京都の文化を移入したり、北方の地との交易を行って独自の文化を育て、栄華を誇った❶。

❶11世紀に欧州で2度の反乱が起きた後、奥州の藤原氏が勢力を築くと、藤原氏を媒介にして地方の産物が都にもたらされた。藤原氏は金の力を背景に平泉を中心に繁栄し、中尊寺毛越寺などの豪華な寺院を建立した。最近の平泉の発掘・調査では、京都と北方の文化の影響が見られ、日本海を巡る交流や北海道から、更に北方とのつながりもあるなど、広い範囲での文化交流があったことが明らかになってきた。

後三年合戦図
義家軍が金沢の柵での列の乱れを見て、清原軍の伏兵を知り、これを攻めているところ。
源氏略系図

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