③貴族政治と国風文化2-1
2.国風文化
国風文化
10世紀以後の文化の趣は、弘仁・貞観文化と比べて大きく変わった。その特色は、文化の国風化と言う点にあり、この時期の文化は国風文化と呼ばれる。国風文化の伝統は、平安時代以後も長く伝えられたが、摂関政治の時期にその基礎が築かれ、また、それが藤原氏が栄えた時代であったことから藤原文化とも呼ばれる。
日本では、7世紀以後、大陸の優れた文物や思想を積極的に吸収してきたが、日本と大陸との関係が大きく変化した9〜10世紀には、それまでの大陸文化の吸収の上に立って、旧来の日本文化がより洗礼され、文学や芸術として新しい姿を見せるようになった。
また、宗教面では、前代に始まった神仏習合が一層進み、更に浄土教が発達して、仏教もそれまでの難しい教理を主とした学問的仏教から、人々に親しみやすい形のものへと変わっていった。
国文学の発達
文化の国風化を表すのは、仮名文字の発達である❶。
平仮名やカタカナの字形は、11世紀初めには、ほぼ一定し、広く使用されるようになった。その結果、日本人特有の感情や感覚を生き生きと伝えることも可能になって、国文化が大いに発達した。
まず、和歌が漢文学とともに、公式の場でもてはやされた❷。
それまでの勅撰漢詩文集に代わって、905(延喜5)年、最初の勅撰和歌集として「古今和歌集」が、紀貫之によって編集された。その繊細で技巧的な歌風は古今調と呼ばれて長く和歌の模範とされ、勅撰和歌集は、その後相次いで編集された❸。
貴族は、公式の場合は従来通り文章を漢字だけで記したが、その文章は純粋な漢文とはかなり隔たった和風のものになった❹。
一方、カナは和歌を除いては公式の場では用いられなかったが、日常生活の面で広く用いられるようになり、それに応じて優れたかな文学の作品が次々と表された。
かな物語では、伝説を題材とした竹取物語や歌物語の「伊勢物語」などに続いて、紫式部の「源氏物語」が生まれた。これは宮廷や貴族の生活を題材とした大作で、同じく宮廷生活の体験を随筆風に書いた清少納言の「枕草子」と並んで、国文化で最高の傑作とされている。かなの日記は紀貫之の「土佐日記」を最初とするが、日記にも宮廷女性の手になるものが多く、女性特有の細やかな感情が込められている。
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