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マリー・アントワネットの見た情景を辿る (インスブルック→ヴェルサイユ→パリ→サン=ドニ)_パリ節約自炊生活番外編

パリで生活しオーストリアを旅すると、今でも様々な所にマリー・アントワネット(以下マリーさん)の面影を見ることができます。フランス史上計り知れない影響と反響を巻き起こした王妃は、どのような場所で生活し、どのような情景を見ていたのでしょうか。ということで今回は、オーストリアのインスブルック→ヴェルサイユ→パリ→サン=ドニを巡り、マリー・アントワネットの足跡を辿りたいと思います。

◆健やかに美しく(インスブルック)

マリーさんは1755年にハプスブルク帝国、現在のオーストリアはウィーンで生まれました。同じオーストリアのインスブルックでは、幼少時代のマリーさんの面影をみる事ができます。インスブルックはオーストリア第2の都市でチロル州の州都であり、2度の冬季オリンピックが開催された事でも有名な、アルプス山脈に抱かれた美しい街です。この街の中心にあるのがインスブルックホーフブルク王宮、1463年に建てられ、後にハプスブルグ家の宮殿となり改修された、美しいロココ調の宮殿です。

煌びやかな大広間には、壁面にずらりとハプスブルグ一族の肖像画が並んでいます。マリーさんの肖像画もあるはずなのに見つけることができず、学芸員の方に聞いてみると「そこにAntonia(アントーニア)と書いてある絵があるでしょ?あれがマリーアンドワネットよ。彼女はオーストリアではアントーニアだったの」とのこと。
上の写真の左側、ちょうど切れているあたりに、あどけない表情のアントーニアの肖像画はありました。その姿には、後に、フランス史上計り知れない影響と反響を巻き起こした王妃の面影を観て取ることはできませんでした。

こちらは宮廷内の一室。ロココ調らしい美しい調度品はマリアテレジアによって整備されたもののようで、音楽やダンスに親しんだハプスブルグ家と幼少時代のアントーニアの生き生きとした様子が透けて見えるようです。

◆期待と不安の輿入れ(ヴェルサイユ)

マリーさんは政略結婚を目論む母マリア・テレジアにより、上の姉マリア・ヨーゼファが夭逝した玉突きで、フランスに輿入れすることになりました。結婚の1年前までアントーニアはフランス語が得意ではなく、集中教育を受けたと言われています。そして1770年、アントーニア14歳、王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)15歳の結婚式がヴェルサイユ宮殿で華やかに挙行されました。

こちらが二人の結婚式が挙行されたヴェルサイユ宮殿内にある「王室礼拝堂」。この荘厳な空気の中で、14歳のアントーニアはフランス名のマリー・アントワネットになったのでしょう。

ヴェルサイユ宮殿観光のハイライトとも言えるのがこの「鏡の回廊」。マリーさんとルイ16世の婚礼舞踏会もここで行われた他、数々の舞踏会がこの回廊で開催されまいた。金貼りの壁面、当時は貴重な鏡をいくつも張り合わせた巨大な姿見、当時はろうそくで照らしていたであろういくつものシャンデリアが圧巻です。マリーさんはこの広間でどんな希望を抱き、どんな気持ちで眺めたのでしょうか。

こちらは宮殿内の「王の寝室」。ヴェルサイユ宮殿には様々な寝室がありますが、こちらがもっとも豪奢、豪奢すぎるほどの部屋です。池田理代子の「ベルサイユのバラ」でマリーさんが民衆に一礼したのはこの部屋のバルコニーだったそうです。この部屋の中でも様々なドラマが繰り広げられ、少女だったマリーさんも大人になっていったのでしょう。

◆唯一の安らぎ(プチトリアノン)

ヴェルサイユ宮殿の庭園内になるプチトリアノン(le Petit Trianon)。元々はルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人のために建てられたもでしたが、完成したときにはすでに夫人は亡くなってしまい、その後マリーさんに与えられました。ヴェルサイユ宮殿からは現在のトラム、昔の馬車で15分ほど離れていて、豪邸ながらも可愛らしく落ち着いた雰囲気のプチトリアノンでの生活は、マリーさんの安らぎのひと時だったのではないでしょうか。

ロココ調の最高峰とも言われる内装は豪華なだけでなく可愛らしさと気品があります。演奏室や寝室など、マリーさんの王妃としての生活の中の一瞬の安らぎを感じることができます。

プチトリアノンに飾ってあるマリーさん、その表情からは不安や疑心は感じられません。プチトリアノンにいる時だけは、本当の自分でいられたのかもしれません。

プチトリアノンの庭。このような美しい小屋が点在しています。有名な「王妃の村里」には時間の関係で行くことができませんでしたが、このような風光明媚な庭や里村に、マリーさんは安らぎを求めたのでしょう。

プチトリアノンからヴェルサイユ宮殿に向かう通路。この通路を、マリーさんはどんな気持ちで通っていたのでしょうか。

◆そして革命へ(パリ、チュイルリー)

そして革命が始まります。
(写真はドラクロワ作「民衆を導く自由の女神」。マリーさんの死後、1830年に起きたフランス7月革命が主題です)

1789年、蜂起した民衆のにより、マリーさん一家はヴェルサイユからチュイルリー宮殿に移送されます。チュイルリー宮殿はその後のパリコミューンで消失、再建の日の目を見ることなく取り壊されてしまいますが、美しく整備されたチュイルリー庭園と、向かい合うルーヴル美術館に面影を感じることができます。
この後、家族全員で変装して逃亡を計ったヴァレンヌ事件の失敗によりパリに連れ戻されたマリーさん一家から民衆の心は一層離れ、タンブル塔に幽閉されます。ちなみにタンブル塔はナポレオン1世によって破壊され原存しません。

◆幽閉と祈り(パリ、コンシェルジュリー)

1793年、ルイ16世に死刑判決が出た後、マリーさんはシテ島にあるコンシェルジュリーに移送され裁判が開始されます。コンシェルジュリーは元々は王宮として10世紀ごろ建築されましたが、14世紀からは牢獄として使用されてきました。マリーさんはここで狭いながら個室を与えられ、祈りながらその時を迎えました。

◆最後まで気高く(パリ、コンコルド広場)

今はオベリスクが聳え、観光客で溢れるコンコルド広場が、マリーさんの最後の瞬間の舞台になりました。この広場にできた黒山の人集りが熱狂と共に、断頭台に登るマリーさんを見つめていました。マリーさんを伝える様々な書籍や演劇では、彼女は最後まで気高く逝ったと伝えられています。断頭台の階段を登りながら、彼女は何を想い、何を祈ったのでしょうか。現在のコンコルド広場の賑わいからは、窺い知ることができません。

◆安らかに眠る(サン=ドニ大聖堂)

マリーさんは一度集団墓地に埋葬されますが、王政復古後に遺体の一部が発見されて、現在はルイ16世と共に歴代フランス王家の埋葬地であるパリ北部のサン=ドニ大聖堂で安らかな眠りに付いています。

文化芸術に多大な影響を及ぼし、これほど長く後世に語り継がれる王妃は他にいないと思います。それほどまで人を魅了してきた、し続けるマリーさんの足跡は、今もオーストリアそしてパリに息づいています。パリに旅行される際には、ぜひマリーさんの面影を辿ってみてはいかがでしょうか。

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