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「最強」 はまりー

 T拘置所の前に着いたときには雨は本降りに変わっていた。運転手が気を利かせて玄関のすぐそばまでタクシーを寄せてくれたが、庇に辿りつくまでのほんの数歩で皮靴の底に水が溜まる勢いだった。災害レベルの大雨だ。
 わたしを驚かせたのは雨の勢いではなく、無遠慮に焚かれたカメラのフラッシュの方だった。庇の下にはずらりとマスコミがならび無数のマイクをこちらに突き出している。誰もが叫んでいるが雨の音に掻き消されて内容は聞こえない。田町、という苗字だけがかろうじて耳に届いた。拘置所の中からすぐに数人の警察が飛び出してきて壁を作ってくれた。一人の警官に肩を抱きかかえられるようにしてわたしは拘置所に足を踏み入れる。精神科医としての経歴は長い方だが、こんな経験は初めてだった。あらためてこの事件に対する世間の異常なまでの関心の高さを思い知らされた。
 起訴前の精神鑑定には簡易鑑定と起訴前本鑑定の二種類がある。空き巣や万引きといった軽度の犯罪ではそのほとんどが簡易鑑定で済まされる。世間が注目する重度な犯罪のみが起訴前本鑑定の扱いを受けるのだが、勤務歴の長いわたしでも起訴前本鑑定は数年に一度警察からお呼びが掛かるかどうかというところだ。長く困難な仕事になるのは目に見えていた。
 T拘置所の地下には長い長い廊下がある。わたしはそのいちばん奥の部屋に通された。地下では雨の音はまったく聞こえなかった。鍵の掛かった重い扉の前には警官が一人立っていて、わたしを連れてきた警官に向かって敬礼をする。重々しい音が響き扉が開いた。扉の前に立っていた警官はそのまま入ってきてわたしのうしろに座る。被疑者の――田町義男の席は簡素な机を挟んで扉からいちばん遠い位置にある。どちらも万が一に備えての措置だった。
 田町義男は椅子に座っていなかった。
 机の前に身じろぎもせず屹立し、ほとんどまばたきしない瞳でわたしを見つめる。わたしはそのふてぶてしい態度に心理的な負荷を感じたが、それを顔に出すような愚かな真似はしなかった。
 田町はおとなしそうで虫も殺さない男に見えた。とてもあんな大それた犯罪を犯した人間とは思えない。
「わたしはきみの精神鑑定をするためにやってきた精神科医だ。きみが自らが犯した罪を担えるかは、わたしの作る診断書によって判断される。きみの供述のすべてが診断に関わってくる。この意味がわかるかね?」
 わたしのことばに田町は――“高幡不動の冷血鬼”は――表情を変えなかった。ただ口を開いてこう云った。
「先生は“最強”ってなんだか分かりますか?」
 こうして田町義男の供述が始まった。



 先生は“最強”ってなんだか分かりますか?
 むかしのぼくはちっとも最強じゃあなかった。親から「優柔不断な子だねェ」という誹りを受けながら育ってきました。ああいう親の言動ってリテラシー的にはどうなんですかね。ぼくは健康な子供の成育を阻害するので良くないと思います。
 それでも親が嘆くことにも一理はありました。ぼくは何かを選択することが極度に苦手な人間でした。「今夜、何が食べたい?」というのはぼくにとっては最悪の問いでした。ハンバーグ、海老フライ、カニチャーハン……好きなものがいくつも頭に浮かんで決められない。考えているとどれもぼくが好きと云いきるには不十分に思えてくる。そうこうしているうちに呆れた母親は勝手に夕飯を出している。そうやって食べる晩ご飯の味気なかったこと。いまでも思い出します。
 そうこうしているうちに世の中にはどんどん“選ぶこと”が増えていきました。
 先生はNetflixのサムネイルの前で数時間固まってしまったことがありますか。
 何か映画が観たいと思う。でも自分が何の映画が観たいのかわからない。コメディ、サスペンス、ミュージカル、無数の選択があり得ます。べつにNetflixじゃなくてもAmazonプライムやU-NEXTに入ってもいい。そう考えると観たい映画ひとつ決めることだけでも大変なことです。無数の選択の中から一つを選ぶことは他のすべてを切り捨てることです。何か行動をするたびに世界の99パーセントを切り捨てなきゃいけない。音楽にしてもマンガにしても同じことです。ぼくは疲れ果てていました。その頃のぼくは最弱でした。
 とある花屋の店先での出会いがそんなぼくの生活を一変させたのです。
 そのときは歩みを止めるつもりもありませんでした。花屋の店先に置かれたポトスの鉢植えにふと目をやって、そのまま足が釘付けになってしまったのです。
 正確にはそれはポトスとは似ても似つかぬ何かだったのでしょう。滋賀県に落下した隕石に見知らぬ種が付着していたとか、店員がそんなことを云っていたのをかすかに覚えています。そんなことはぼくにはどうでも良かった。いますぐそのポトスを買いたい。家に飾りたい。強い衝動がぼくを突き動かしていました。店員は鉢植えの値段は10万円だと云いました。ぼくはすぐさま銀行に向かい、すぐに折り返してその鉢植えを手に入れました。
 味気ないワンルームの棚にその鉢植えを飾ったとき、いままで感じたこともない確信がぼくの中に芽生えてきました。
 それは世界とそのポトスの鉢植えがまったく矛盾無く完全に折り合っているという確信でした。この世でポトスだけが正しい居場所に正しいかたちで鎮座している。まるで太古の昔からある樹齢3000年の老木のように。いや、それ以上の存在としてポトスは“あるがまま”を突きつけてきたのです。
 それはとても強い感情で、ぼくはすぐさま自分の“最強”への道が開けたことを悟りました。ポトスが自然だと云うことはそれ以外のすべてが不自然だと云うことです。ぼくはすぐさま本棚をひとつと台所の圧力鍋を捨てました。それはポトスのあるこの部屋の雰囲気とは合わず、すなわち不自然だったからです。
 ぼくは人生のなかでまったくブレない芯を手に入れたのです。どんな映画を観るべきか。どんな音楽を聴くべきか。もう悩むことはありません。ポトスのあるこの部屋にふさわしいものを選択すればいい。ファッション誌や家電情報誌はぼくにとってはお笑い草になりました。何を買い、どんな髪型をし、何を着るか、すべてはポトスに合わせれば良いのです。それで結果は上々でした。田町くん、表情が明るくなったね、そう職場で云われました。その職場もすぐに転職しました。ポトスのある部屋に住んでいるぼくにはふさわしくない職業だったからです。
 転職は成功し、給与は大幅に上がり、彼女もできました。もちろんぼくの――失礼、ポトスの部屋にふさわしい女です。それ以外の選択があるはずもありませんでした。
 先生は“最強”ってなんだか分かりますか?
 選択しなくていいってことです。たった一つの選択肢しかないことが最強で自由なのです。
 ……はい?
 ええ……ええ、わかっています。彼女には気の毒なことをしました。でも仕方のないことだったのです。
 ある朝、起きてみるとポトスの葉が一枚受け皿に落ちていました。
 ささいな瑕疵に過ぎない。そう受け流すことはぼくにはできませんでした。ポトスだけがぼくにとって宇宙の真理、侵さざるべき絶対的な法だったのです。
 彼女は新しいかたちをしたポトスにはまったく似合わない女でした。仕方が無かったのです。
 証拠隠滅? それは誤解ですよ。大いなる誤解だ。ぼくはポトスに合うかたちに部屋を変えようとしただけです。その為にはすべての家具を入れ替えなければならなかった。面倒じゃないですか。だから、ガソリンを撒いて、火を。
 ぼくが望むことは新たな部屋にポトスと二人で暮らすことだけです。ポトスにふさわしい家具を揃え、ポトスにふさわしいぼくが住む部屋に。
 それだけが、いまの希望なんですよ……。



 面接を終え、T拘置所を出ると雨は嘘のように止んでいた。
 わたしはタクシーを呼んでもらい、まっすぐに事件現場に足を向けた。黄色いテープで囲われた廃墟の前には警官がひとり立っているだけで、身分を明かすとすぐにテープの内側に入れてくれた。すでに現場検証は終わっているのだろう。マスコミの姿はまったくなかった。
 廃墟の中をいくばくも歩かないうちに、わたしの目はすぐに足下で瓦礫に覆われた緑色に惹きつけられた。
 マンション住民、14名の命を奪ったあの業火のなかで……さすがに鉢植えは割れていたが“ポトス”には煤ひとつ付いていなかった。
 呼吸の乱れを悟られないように、わたしはわざとゆっくりとその場をあとにした。
 自宅の近所にあるホームセンターで肥料と鉢植えを買って、家に帰り着く。我が家。スウィートホーム。心地よい場所。自分が自分でいられる場所。
「あら、お帰りなさい。早かったのね」
 そんな我が家に声が響く。
 わたしの家にはまったくふさわしくない、耳障りな声が。

(了)


『最強』はまりー 植物のある風景(3601字)

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