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死に絶えゆくブルートレインに乗った話

某月某日、私は死の淵にいた。しかしその時の記憶は全くなく、気が付いたときには親父が私の自動車を運転していた。東名高速を東京方面に走っている最中何も会話はなかった。
それから記憶がはっきりするのに数日かかり、その直後に退職手続きやらなんだかんだと忙しない日々が襲ってきて、気が付いたら秋は深まり11月になっていた。

急に社会から放逐されて暇になってしまった。退職金は出たので、年明けまでは何もしないでもよかった。ただ実家の部屋で無為に過ごすのは嫌だったので旅に出たいと思った。
海外も視野に入れたが生憎パスポートは持っていない。しかも当時は英語アレルギーがあって国外という選択肢には消極的だった。ちょうど弟が大阪で一人暮らしをしていたので、久しぶりに顔を見に行こうということにしたのだ。

この旅、実はもうひとつ目的がある。小学校の頃からの夢であったブルートレインに乗ることにしたのだ。当時、ブルートレインは絶滅危惧種であさかぜ、さくら、富士、はやぶさはみんな廃止になってしまい、残っていたのは銀河とサンライズ出雲、北斗星くらいだっただろうか。大阪方面に行くのは銀河とサンライズ出雲だが、ブルートレインの血を濃く受け継いでいるのは前者だったので、自然と乗る電車は銀河になった。
好きな食べ物は最後まで取っておく人間なので、帰りに大阪から乗ることにし、行きはなんとなく中央道経由の昼行高速バスにした。

3日分の着替えと装備に伊勢丹の地下で買った弁当、その辺で買ったお茶を持ってゴミゴミとした新宿のバスターミナルにやってきたのは11月下旬。冬が近づきつつも日差しが暖かい穏やかな日だった。
なんとか窓側の席を取り、ぼんやりと出発を待つ。平日の昼間なので乗客は少なく、せいぜい10人くらいだっただろうか。出張目的か旅か判らない人間ばかりだった。

定刻になり、バスは出発する。新宿西口の高速入口から首都高に乗り、そのまま中央道で西に向かう。中央道を走ったのは、スキーで行った長坂くらいまでで、そこから先は未知の領域だったのでとてもワクワクした。
バスに乗るのは好きだ。見知らぬ道を走り、見知らぬ場所に辿り着くのは冒険をしているような感覚になる。それは路線バスでもそうだし、高速バスでもそうだった。

八ヶ岳SAで1回目の休憩になった。弁当は八王子を過ぎる前に食べてしまったので腹が減っていた。追加のお茶と軽食を買い込み、バスに戻ろうとすると日本アルプスの山々が見えることに気が付いた。持ってきたデジカメで何枚か写真を撮る。しかし、逆光でろくな絵にならなかった。だったら自分の目で記憶するしかない。山頂の方は雪が被っていた。雲も山頂付近にかかっており、さぞかし荒天なのだろうと思った。世にはそんな山にあえて登る人がいる。阿夫利神社のある大山程度なら散歩がてら何度も登っているが、命に関わる様な厳しい環境での登山は想像も出来なかった

15分の短い休憩が終わり、バスは西に進む。この辺りはもう未知の区間で少しずつ実績が解除されていく。
知らない風景を眺めながらぼんやりしていると眠くなってきた。いや、眠くない。寝たら勿体ない。そんな問答をしているうちに眠ってしまった。

気が付くと空は真っ黒、道は京都に入っていた。しかしバスは止まっている。正面を見ると赤いランプの列がずっと向こうまで続いていた。運転手によると、事故渋滞で20キロは繋がっているらしく、大阪到着は大幅に遅れるとのことだった。

弟に遅れる旨のメールを送った後、ぼんやりと赤いランプの列を眺めていた。渋滞に巻き込まれるのは嫌いじゃない。むしろ好きだ。自分の自動車でも待っている最中にのんびり音楽を聴いているのが好きだった。マニュアル車だった上に、クラッチが重かったので長時間はさすがに地獄だったが……。

結局大阪駅に着いたのは22時を過ぎてからだった。そのままJRに乗って弟の家の最寄りに着いたのは23時。お好み焼きもたこ焼きも串揚げも食べることが出来ず、近所のバーガーショップで買ったハンバーガーで悲しい夕飯を採った。

実家を出て数年が経つ弟は、煙草を吸うようになったこと以外は変わっていなかった。甚平姿で紫煙をくゆらせ、私が死の淵にいた事件のことを聞いてきた。はぐらかすこともなく正直事の顛末を話すと、呆れたように「アホだな」と言われる。実際アホの所業なので何も言い返さない。むしろ、腫れ物を触るかのような扱いだった実家の人間よりは心地よかった。

明くる日、何となく串揚げが食べたくなったので新世界まで行ってみることにした。JRで大阪まで出て、後は地下鉄を適当に乗り継ぐ。地図を見ながら歩くのは苦にならないので、いわゆる梅田ダンジョンの深淵にハマることはなかった。きっと運が良かったのだと思う。

新世界に着いたのはお昼時で、観光客と思われる人々が通りのお店にどんどん吸い込まれていた。呼び込みの店員が話すのは関西弁。ここでは当たり前のことなのだが、関東で産まれ育った私には不思議な感覚だった。この違和感のような不思議な感覚、自分の当たり前から抜け出して、自分とは異質のものだらけの土地に行くというのが旅の醍醐味なのだろうか。同じ日本国内でこう感じるのだから、外国に行ったらショックを起こすのではないだろうか。

良い感じに呼び込まれた串揚げ屋で腹と心を満たした後、日本橋まで歩いてみることにした。東の秋葉原、中部の大須、関西の日本橋はオタクのメッカとも言うべき場所である。規模は秋葉原が最大ではあるが、それでもコンパクトにまとまった日本橋のオタクロードは見るべきところも多く、歩きやすいので疲労も少なかった。

大阪駅前に戻ってきて、カフェで何をするわけでもなくぼんやりと外を眺めていた。つい先日まで生きるか死ぬかの狭間にいたはずなのに、今は元気に旅先にいる。もし、あのまま助からなかったら私はここにいなかっただろう。見聞きした話ではよくご先祖様が出てきて、まだここに来てはいけないと言われて結果助かるというのがある。ただ覚えていないだけなのかもしれないが、私の場合はそれがなかった。生死どちらにしても自分で選べと言うことだっただろう。記憶は無いけれど、きっと色々考えた結果生きる道を選んだ。ただ、それだけなのだろう。

弟宅に帰る前にみどりの窓口で寝台急行銀河の切符を購入した。売り切れで乗れなかったらどうしようかと思ったが、問題なく購入することが出来た。速達な飛行機や新幹線、もっと格安な高速バスに押され、夜行列車はもはやオワコンだった。実際、銀河も翌年のダイヤ改正で廃止になる。忙しい現代人による合理化の波。事業なのだから仕方ない。擁護の言葉はいくつも出てくる。それでも、もの悲しく感じるのは何故なんだろうか。

翌日は神戸に行くことにした。特に行く当てもなく、ブラブラ街歩きをするつもりだった。そもそも当時は神戸に何があって、興味が湧くものがあるかなんてわからなかった。
結果からいうと、神戸に行ったのは失敗だった。神戸駅から元町商店街、南京町からメリケンパーク、ハーバーランドから駅に戻る間、辛い以外に感想はなかった。原因はカップル、家族連れが多すぎるというもの。
当時はそういうものに関して色々拗らせていたので、自分だけ独りであることにコンプレックスを感じていた。特にハーバーランドから駅に戻るまでが最悪の精神状態だったのを覚えている。

弟宅に戻ると、彼から近所のスーパー銭湯に行こうという提案を受けた。魂の洗濯をしたい気分だったので有り難い申し出だった。歩きながら神戸での顛末を話すと、相変わらずバッサリ斬られてしまった。独りでいることにコンプレックスを抱くのは確かにアホっぽいかもしれない。しかし、あの頃はぬくもりというか、優しさに渇望していた時期なのでどうしようもなかったのだろう。そう思いたい。

約30分の魂の洗濯をした後、スーパー銭湯の食堂で蕎麦を食べた。何故この手のところには本格的な蕎麦があるのだろうか。当時から大分経った今でもこの手の場所でやたら気合いの入った蕎麦やうどんを目にする度にこの時のことを思い出す。弟とはたわいの無い話をしていた。一人暮らしの苦労や趣味のこと、今後どうするかとか……。今思うと、あの頃の彼も結構苦労していた。それなのに、飄々としていて、捉え所の無い奴だった。それ以上の事件を起こした私に優しく接してくれたのだろうか。

旅行最終日、ついにブルートレインに乗る日がやってきた。その日は、日が傾くまで弟宅でダラダラしたり、近所を歩き回ったりして過ごしていた。見送りに行くと言った弟に連れられて、道頓堀のお好み焼き屋で大阪最後の食事をした。綺麗に手入れされた鉄板がある席に通されたので、自分で焼くスタイルかと思ったら、既に完成したものがやってきたので少し残念だった。

22時22分大阪発の急行銀河を前に私は情けない顔をしていたと思う。EF65 1000番台に引かれた24系の蒼い車体。憧れていたものが目の前にあるのだ。幼少の頃から品川や尾久の車両基地で遠目からしか眺めることしかできなかったそれが目の前にいるのだ。泣きそうな顔もしたくなる。日本の電車図鑑に載っていた通りの銀河のマーク。デジカメで撮った写真は手ブレが酷くてろくなものがなかった。

乗車後、自分に割り当てられた寝台に荷物を置く。乗車率はさほど良くないようだったが、上の寝台に乗る男性がやってきた。特に挨拶はしなかったが、わざわざ銀河に乗るくらいなのだから、きっと旅慣れしている奇特な人なのだろう。

車内の設備を写真に残したり、他の車両に行ったりしているうちに出発時刻となった。少しずつ動いていく車両にテンションは上がるばかりだった。
新大阪、京都、大津、米原……過ぎ去りゆく関西の駅を車窓から飽きることなく眺めていた。眠気はあったが揺れと音が酷いのであまり快適に眠れそうになかった。A寝台なら多少違うのかもしれないけれど、さすがにそこまで贅沢する気はなかった。窓辺に収納式の簡易椅子に座りながら。今回の旅のことを思い返していた。降りる予定の横浜まで眠れない夜を過ごした。

死の淵から蘇った私が、死に絶えゆくブルートレインに乗る。正直、行き当たりばったりな旅であった。
気が付けば、そんな旅から10年以上が経っていた。私の周囲は大きく変わった。結婚して独りのコンプレックスを抱くことも無くなり、趣味も友人もとても増えた。もう死の影に怯えることもなく、元気とは言えないけれどそれなりに生活している。

弟は大阪から実家に戻ってきて、縁が無いのでもうあっちに行くことも殆どなくなった。行くとしても深夜高速バスくらいしか選択肢はない。新幹線は高いし風情が無く、車はもう売ってしまった。
家族が増えて旅行に行くことすらもあまりできない。自分の周囲が旅というものからどんどん遠ざかっていく感覚がある。だから、たまにこの度のことを思い出す。写真と記念に残した乗車券しか残ってないけど、あの時確かに私はブルートレインに乗った。そしてそれは、最初で最後の旅だった。

今日、ブルートレインは絶滅している。急行銀河も旅の翌年3月に廃止された。今も残る寝台特急はサンライズ出雲・瀬戸だが、あれは赤い電車だ。もう蒼い系譜は途切れてしまったのだ。
新幹線も高速道路も進化し速くなった。飛行機はリーズナブルになって乗りやすくなった。半日あれば北海道にも九州にも行けるようになった。合理化と高速化の影で寝台特急や普通の特急、路線すらもどんどん廃止された。現代人はとても生き急ぐようになって、社会にも余裕が無く、時折息苦しく感じる。

人間はいつでも旅をすることが出来る。どんな場所、手段だって私達は旅立てるのだ。それだけは忘れてはならない。だから、いつかまた私も旅立とう。行き当たりばったりで、たまにしくじる、思い出したときにクスッとくるような旅に出よう。

ただ、そこにブルートレインという選択肢が無くなったことが少々もの悲しい。

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