normalization(完)


その匂いを嗅いだのはこれで三度目である。
遥か彼方に視線を移し、昼間だというのに煌々ときらめく不自然な三日月を度のキツイ黒縁メガネで覗いていた。
今の僕にはそれが精一杯の抵抗で欲望の淵から彷徨う背後霊のような僕がいたに違いない。
これは勝手な想像だが匂いというものは既に記憶された統計に過ぎずそれに抵抗しない自分が欲しかった。

小田急線はいつもの色彩をまといながらも新宿から箱根に向けて走りだしていた。

女「こういちくん、じゃない?」
僕「?・・・まりこ」
女「そうよ、ほら高校の時、席となりだった」

僕はいつも匂いに引っ掻き回され、人生の大半を嗅覚というもので棒に振ってきた記憶がある。こうして秋の箱根に向かう小田急線の車内から欠けた月の稜線を追っていけばきっとどこか新しい世界に入れると信じていた。
その頃の自分はいろいろなことが、例えば仕事や恋愛や生きるということの意味が知りたくてさまよっている托鉢僧のようなものだった。

僕「・・・ぜんぜんわからなかったよ」
まりこ「十年ぶりだね。こういちくん全然変わってないからすぐわかった」
僕「鹿児島には帰ってるの?」
まりこ「たまにね」

僕「そうか・・・、おいらはあれから三回ぐらい」

掘り起こされた人生は耕された人生とは違い匂いがしない。あの時も微かな、まりこから発せられる土の匂いが鼻腔に絡みつかなければ
僕の人生はそのまま闇へとまっしぐらだったと思う。      

まりこ「で、どこいくのこういちくん」
僕「ぶらりと小旅行ってとこか」
まりこ「優雅ね」
僕「ユウガ・・?まさか、いや・・・、かもね」

ボクらを待ち受ける序章がここから始まるとはその時知る由もなかった。
高校以来のまりこの匂いを感じ取り小田急線相模大野を過ぎた頃には僕たちは昔のあの輝かしい時代へと遡っていった。
人生やらなんやら面倒なことが多くなって、飛び乗った電車でまさかまりこと再会するとは。それも東京で。

まりこ「わたしは鶴巻温泉で小さい旅館を任されてて、五部屋しかないちっぽけなトコ」
僕「そうか頑張ってるんだな。オイラは健康食品の営業・・・」
まりこ「へー、どんな」
僕「どくだみ茶」

電車の速度がその時遅くなったように感じたが、それは間違いで郷土への回顧と哀愁が入交り、虚ろな僕の目は三日月の欠けた部分を探し始めていたからだった。
座間駅を過ぎた頃にはすっかり、まりこも童心に返り僕の肩のあたりをげんこつで思いっきり叩いてきたりした。

その感触はいまでもあの、まりこの体臭というか香りというかそんなものが交じり合って絶妙な感覚が沸き起こった。
遥か彼方の鹿児島の片田舎での生活やチャリンコのチェーンの油の匂いなど過去の記憶がこの時僕の五感を横切った。
同じ月は故郷でもここでも同じ軌道を刻んでいるに違いない。

僕「きょうは鶴巻温泉にしようかな」
まりこ「オー、ツルマキおんせんへようこそ」
僕「決めた、まりこ今日部屋空いてる」
まりこ「がらがらよ。再会を祝して仕事終わったら飲みにいこうよ」

まりこは高校生のようなはしゃぎっぷりで板さんに夕食の手配を伝えていた。
僕はもう東京での生活に疲れ果て、鹿児島に帰ろうかななどと考え始めていた頃だ。そんな矢先の出来事は決して偶然ではなく、なるようになるという楽観的な感覚でもあった。

まりこの任されている旅館は、正確には民宿に毛が生えたような、よく言えばアットホームな佇まいだった。ダミ声の板さんが出刃包丁片手に出迎えてくれ、まりこはすぐに仕事の準備に取り掛かっていた。彼女との再会はおおよそそんな感じだった。

見るもの全てを恐れ見えないものまで深い森の中から取り出しそれを襲いかかる熊に変身させ、安心している僕がいた。

まりこと約束してあった飲み屋は宿から歩いていけるほどのところにあり鶴巻駅の閑散としたメインストリートから一本裏に入ったところにあった。カウンター八席ほどの寂れてはいるが確かな歴史を刻んできた風格のようなものがある店であった。

店主「IRASSYAIMASE」
僕「ひとまず生ビールください」
店主「DOCHIRAKARADESUKA」
僕「東京・・。素敵な内装ですね。なんか包まれてるっている感じが・・・」
店主「ARIGATOUGOZAIMASU。・・・IRASSYAI」

まりこ「こういちくんごめん、ごめん。洗い物が多くて。待った?」
僕「いや、ほんの少し前についた」
まりこ「ラウル、私はシェリー酒ね」
僕「どこの人」
まりこ「ドイツ人だけれど母親はコロンビア」
僕「どうしてここで働いているのかな」
まりこ「いろいろあるのよ人生は。それより再会を祝してカンパーイ」

あくまで陽気なまりこを肴に久しぶりに楽しいお酒を飲んだ。高校時代の淡い思い出も手伝い僕は狭いカウンターだったが広がる世界は果てしないものだった。
ここから始まるであろう何か。それを掴み取るためにただただ酒をあおった。自分というものの根底に沈殿するかすかな上澄みを飲み込むために。

まりこ「こういちくんはほんと全然変わらないね。あの小田急の席でまさかと思ったけどあたしね、確信があったんだよ。あんときのこういちくんだって。だって匂いでわかるんだな」
僕「・・・そうなんだ。高校の頃は両親のこととか進路だとか悩んでた。その頃の匂いはまさしくニオイであふれてたかもね。強烈な社会に反発するなにか、かなあ」
まりこ「そうか。あたしはちがうな、なんていうの家族の安穏とした安定した場所に嫌気がさしていた、かっこよく言えばね。でもそれも正確じゃなくて冒険、挑戦・・・のようなものに憧れていて鹿児島出てきた」

この過去の時間は人生の中で、いつしかどっかと腰を下ろし僕というバカみたいな存在に数倍の時間を投げかけてくるに違いないと思った。

店主「TUGIHANANINI?」
まりこ「焼酎いこうかな」
僕「いいね」
まりこ「んじゃ、いつものやつねラウル」
僕「なによそれ」
まりこ「いいから付き合いなさい」

ラウルは一段上のスライド式の扉を丁寧に右にずらすと、そこには焼酎の5合瓶がずらりと兵隊のように並んで鎮座ましていた。
東京に来てから所謂乙類の焼酎を口にしておらず安いコンビニのチュウーハイで満足していた自分がいた。

ラウル「KURAGE」
まりこ「いいわ、クラゲでいい」
僕「・・・ぼくもそれ」
ラウル「KASHIKOMORIMASHITA」
僕「でもさ、まりこがあんなにテキパキ女将のような仕事してるなんて想像できないよなあ」
まりこ「そうかな、こういちくんだって同じじゃない」

同じ匂いと、店内の臭いが交錯し僕の嗅覚は麻痺したようだ。


まりこ「それでは五度目のカンパーイ」

夜の一時を超え、店内は貸切状態のなか時間だけはゆっくりと過ぎていた。たとえば宇宙の存在が神とすればその中で与えられたわずかな時間。

まりこ「高校の黒板に、あたしとこういちくんの相合傘が書かれてた日のこと覚えてる?」
僕「いや、覚えてない」
まりこ「だよね。だってあたし登校してすぐ自分のハンカチで消したもん」
僕「・・・・」
まりこ「で、ここでまた再会を果たすことになった・・・・」
僕「ん?」
まりこ「人生に無駄なことなんてないと思うし、出会いも必然なのよ、わかる、ここにラウルがいて、まりがいてこういちくんがいる。それでいいよね。いいよね」

ラウル「SOROSORORASUTOODA-DESUGA」

僕たちが歩んできた道はなんだったんだろう。苦しむために生まれてきたわけでないし拝金というばかけた妄想の中で生きてきたわけでもない。ただ、自然に寄り添い自分らしく生きることの意味を探るための旅に出ていただけなのではと回想する。だから、どんなに酒をあおっても過去と未来の扉が見えず悶々とした日々を送っていたのだ。その時までは。

ラウル「WATASHIHAKOKODESHINITAIDSUNE
DATTE,KOKOWATENNGOKUDAKARANE」

僕は次の日、強羅のゴンドラの中にいた。
見渡す景色は黄金色の紅葉という化学変化もしくは生物学的なにかで構成された色彩の世界にあり、そこにぽつねんとゴンドラに揺られる自分は何者かを把握できないでいた。
ゴンドラはゆっくりと桃源郷に滑り込み確かな足取りでまた颯爽とした気分のような風が流れた。
その時の感情は、僕が東京に来てから初めて開放という言葉がシックリくる場面でもあった。

まりこ「こういちくん、コッチコッチ」
僕「悪いな、休みのとこ箱根案内なんかさせちゃって」
まりこ「なにいってんのよ、みずくさい。ラウルが車持っててあそこで待ってるから」
僕「え、ラウルも・・・・」
まりこ「あたしもさ、たまには気分転換しなくちゃと思ってたところなんだな。階段きついから気をつけてよ、ラウール到着したよ」
ラウル「GOKIGENNYOU」
僕「すみません。車まで出してもらって」
まりこ「いいのよ、気にしなくて。こういちくんは前に乗って。
出発進行。ラウール今日のメニューは?」
ラウル「OTANOSHIMI NI」
まりこ「ラジャー、偉大なる人生のシェフよ」

全ての出来事は予定通り進んでいるかのごとく僕たち三人を押し上げていた。ラウルの年代物の真っ赤なワーゲンは悲鳴をあげることもなく箱根の山道を駆け抜けたし、僕たちが何者であるかなんてお互い全く興味がないというような曖昧な世界をも通過した。
箱根の山々はなぜか僕たちを暖かく包み込んでくれ有意義な秋に僕は頭をたれていたと思う。


ラウル「TOUCHAKUDESU」
僕「・・・・?」
ラウル「MARIKO OKIRO」
僕「麻里子?」
まりこ「・・・着いたのね」

無神「農業」

老婆「KYAAA~、待ってたよ。また来てくれたんだね」
ラウル「HAI」
まりこ「ばあちゃんとの生活楽しみだからね、今日は友達連れてきた」
老婆「そうかい、そうかい」

まりこ「茄子と南瓜は元気?」
老婆「私と一緒、生き抜いているね、アッハッハ」
まりこ「では、始めまショウ」
僕「・・・・」
ラウル「KIGAEMA SYOU」
老婆「ショー???タイム、なんてね、ガハハ・・」

このとき自分の愚かさを懺悔することが正しいのかどうか判断できないでいた。生きているということがいとも簡単に成立してしまうことへの懐疑がすべてを覆っていた、と思う。

老婆「兄ちゃん、ダメダメ、大根は腰を入れて抜かなくっちゃ、腰痛める」
まりこ「こっちコンテナ一杯になったから、ラウル、軽トラこっち回して」
ラウル「RYOUKAI」
老婆「助かるよ~、ホント。じいさんが去年逝っちまって年寄り一人でこの畑を守ってるけどね」
まりこ「ばっちゃん、今年は大根ばっちりだね」
老婆「まりちゃんとラウルのおかげだよ。ところで兄ちゃん、あんまり楽しそうじゃないね」
僕「・・・いえ、予想外な展開だったので」
老婆「人生は予想なんて出来やしないさ、生きてりゃいいの、それでいい」
僕「はあ」
老婆「お兄ちゃん、それ終わったらあそこのほうれん草と、春菊とネギ採っといてくれな」
まりこ「ばあちゃ~ん、大根は道の駅に出荷だったよね」
老婆「ああ、ラウルひとっぱしりしておくれ」 
ラウル「HAI」
老婆「まりちゃんは、あと椎茸とキクラゲを頼むね。兄ちゃんはワシについて来い」
僕「次はなんですか?」
老婆「ニワトリシメる」
僕「え・・・・」
老婆「鶏肉嫌いかね」
僕「い、いえ」
老婆「そりゃよかった、よかった」

微かな匂いで目が覚めた。
ゆっくり体を動かしてみると火を起こすばあちゃん、木桶の中で野菜を洗っているまりこ、真っ白なコックコートを着込んだラウルが裸にされた鶏に鋭利な小刀を向けるところだった。

一体どのくらい目を覚まさなかったのだろう。最後の記憶は鶏の頚動脈から真っ赤な血しぶきが僕めがけてまるで槍のように飛んできてそれを見て大笑いしている婆ちゃんのシーンで終わっている。
僕は恥ずかしさと照れくささでそのまま眠ったフリをしていた。

しかしコントロールできない僕の体は正直で、お腹が鳴った。

老婆「お兄ちゃん目が覚めたかい。風呂沸かしてな」
まりこ「ばあちゃんは人使い荒いからね、こういち」

まりこが既に僕のことをオートマチックに呼び捨てにしていた。
不愉快な感じなど全くせずむしろ心地よさが優った。
部屋を見渡してみると文化的な生活とは程遠く、燻され黒光りした梁、土間というのだろうか時代を超越した世界がそこに存在していた。

僕「・・・バッチャン、風呂ってどこ」
老婆「台所の横にあるじゃろ」
僕「・・・・」 
まりこ「これよ、これ」
僕「これって大鍋じゃないの?」
老婆「・・・確かに、鍋にもなるな。がははは・・・」
ラウル「GOEMONN BURO」
僕「これってお風呂なの?」
老婆「薪をくべて沸かすんだ。薪は外にあるから斧で割ってな」

薪割りから風呂をわかせるまでに三時間を要した。途中ラウルが調理している台所、囲炉裏にも薪を運び所謂燃料補給を行った。

ここでの生活は時間という観念が喪失し、いい意味で僕の何か、正確には本能のようなものかもしれない何かを着実に呼び覚ましていた。

毎日時間に追われ、満員電車にゆられ遅くまで人工的なアカリが煌々と揺れ動くビルで消耗するまで無意味な生産を続けている生活。こんな自分の生態を俯瞰していた。

老婆「こういち、風呂はいれ、飯は準備できてるからな」

こういちと呼ばれた瞬間僕はすべてのことに抵抗出来ず、流されていく自分を見守った。

老婆「こういち、たくさん食べれ!」
まりこ「こういち毎日ろくなもの食べてないね。だから顔色悪い」
ラウル「SHINDOFUJI、IIKODOBADANE、KOUICHI」

確かにぼくの食生活は自慢できるようなものではなかった。夜遅いせいもあるが朝はなかなか起きることができずいつも遅刻寸前。もちろん朝食など東京に来てから食べたことがない。お昼はコンビニ弁当でちゃっちゃと済ませ、夜は営業接待のストレス溜まる飲み会で済ませ、
ないときは冷凍食品のチャーハンなんかを食べたりする毎日である。

僕「食べますよ、そんなにこういち、こういち言われなくても!」
老婆「なんか、気に障ったかい」
僕「・・・・」
まりこ「いいのよ、こういちは昔っからかわってないんだから、そのままでいい」

見透かされた自分は恥ずかしくなかった。むしろ心地よさが残った。

僕「この鶏肉ウメー」
ラウル「TORISASHI、ABUTTE、KOORIDE SHIMETA」
老婆「じゃろ、こういちと絞めたトリだけんな」
僕「やめてよ、バッチャンまた倒れちゃうよ」
老婆「なんぼでも倒れろ、ワシが看病しちゃるからガハハハハ・・・」

みんな、バッチャンが仕込んだドブロクとラウルの見事な料理で食卓を囲んでいたが、それはぼくが今まで飲んだり食べたりする、喰らう行為ではなく、食事という神聖な行為なのではと回顧する。

老婆・まりこ・ラウル「すべての命に感謝して、カンパーイ」

その時の感覚を今でもはっきり覚えている。
食べるということがこんなにも楽しく豊かなものなのか。
自分のちっぽけな自尊心などどこかのドブに投げ捨てたい衝動。
豊かさとは、過ごす時間の密度なのだとその時知った。

誰にも束縛されない細胞の開放。この見事な食卓の匂いに完全に負かされてしまった自分がいた。

僕「おれ、仕事やめる!」

無神「農業」 

老婆「コウイチ、かんぱい、かんぱいかんぱいかんぱいかんぱい・・・・」

バッチャンの涙は料理の中に結晶とともに落ち、薄口のラウルの料理をさらに引き立てた。

翌日、ぼくは辞表を提出していた。

まりこ「思い切ったね、こういち。でもさ、いい選択だと思うよ」
ラウル「JIBUNRASHIKU IKIRU. TAISETUNAKOTO」
老婆「こういちは、バッチャン農園ウーファー一号」

こうして僕はウーファーという名の居候となった。
今までのような匂いに攪乱された後悔はなく、未来に終わりがある感覚、ちゃんとした結末が待っていることを自覚した瞬間でもあった。

僕「みなさん、よろしくおねがいします」
まりこ「週末にはいつも来るからね。ちゃんとバッチャンの手伝いするのよ」
僕「ラジャー」
ラウル「TANOSHIMIDESU KOUICHI NO “SYOKUZAI”」

無神「食材or贖罪」

僕「見てろよ、俺だってやればできるんだから」
まりこ「いままでやらなかっただけ、ってね」
僕「まりこ、いまの発言許せないなあ~」
まりこ「なら腕相撲してみる?」
僕「?」
まりこ「さあ」
老婆「わしがレフリーじゃあ」
ラウル「REDY GO!!!」 
僕「ヨシ!!!!」

ぼくの当時の実力といったら、まりこの刹那にひれ伏すしかない状態であった。

約束通りまりことラウルは毎週のように訪れ、さながら週末家族が出来上がっていた。

毎日ぼくは草むしりと種蒔きに追われ、来春への準備に大忙しだった。考えるという行為を捨てざるを得ないほど毎日クタクタになり泥のように眠った。

体重も五キロ落ち、ゾンビのような顔色も逞しい男としてのソレに変わったことを実感した。相変わらず黒縁メガネは健在だったが、朝メガネをかけた瞬間自分がスーパーマンに変身できている喜びを感じていた。バッチャンも幾分若返っていくようにも思われたのは気のせいだろうか。

*****ある日、僕を驚かせる出来事が起こった。

老婆「こういち、息子にならんかね」
僕「え・・・」
老婆「畑と田んぼがけっこうある、けどワシ一人では手に負えん」
抵抗できない、いや抵抗しない自分を自覚した。

バッチャン「・・・・・」
僕「いいよ」

永い時間が過ぎたように思われる。
選択は一瞬だが、走馬灯が実在するならその中のメリーゴーランドの一番小さい馬に乗ってみたい、と願った。

僕「バッチャン、じゃないなあ。・・・カ、カアチャンお願いします」
バッチャン「了解。MAY SOM」

翌日からの労働はさらに過酷なものになった。
でも、この享楽を逃したくない自分も同立していたと思う、そう。
この時から、人生と土の匂いを感じ取った記憶が残る


「斉藤光一」☛「西園寺光一」
この出来事が、新たな自分との出逢いであった。

そして、忍耐の冬を越し収穫の春がここにもやってきた。

この頃からまりことラウルは毎日のように訪れ、連泊することも珍しくなかった。ここのところ、まりこの体調がすぐれず、空気のいいここで過ごせるようラウルが気をきかせたようだ。

まりこ「アタシね。妊娠したみたい」

まさかの展開に、ラウルもバッチャンも驚いていた。無論ぼくも同じだ。

まりこ「ここで出産したいんだけどバッチャンいい?」
バッチャン「そりゃいいとも、賑やかになるね!」
ラウル「KOUI CHI IYOIYO OTOUSANNDANE」
僕「・・・・?」
バッチャン「コウイチ、名前はオイラが付けてやろう」

まりこ「こういちの子じゃないよ」

ぼくはラウルとの子供かと思っていたがどうやらそれも違うらしい。まりこも積極的に話したがらないので、だれも追求をすることはなかった。 
そんなことより命が誕生する期待でみな心躍らせていたし、みんな口には出さなかったが、家族が増えるという単純なできごとに歓喜していたはずだ。
それからの約十ヶ月全員参加の出産準備に取り掛かった。
ラウルは店を売りその金を使って欲しいと申し出てきたし、事実出産までラウルは片時もマリコから離れなかった。

ぼくはこの頃から自然農法に取り組んでおり少しでもマリコに安全なものを提供したいと強く望んでいた。ラウルの料理は出産バージョンに見事にきりかわっていたしバッチャンは赤ん坊のオシメや衣類を編み出していた。

まりこはといえば、自宅出産を望みバッチャンに取り上げてほしいと嘆願していた。まりこはみんなの子供だからと笑いながら、日に日に大きくなるお腹を撫でていた。ぼくの人生速度は四速にはいった。

まりこ「うまれるううううう」

みんなの見守る中奥の六畳間でバッチャンは助産婦のように手際よく赤ん坊を取り出していた。じぶんもこうして生まれてきたのだと実感した一瞬でもある。ラウルは大声を出し泣き出した。

バッチャン「おとこのこじゃ」
まりこ「バッチャン、ありがと」

ヘルスメーターに乗せられた男の子へは、バッチャンからのプレゼントが待ち受けていた。

バッチャン「3500グラム。名前はロクジョウでよかろう」
まりこ「いいね、ロクジョウ」
ラウル「ROKUJYOU ヨロシクネ」
僕「バッチャン、いい名前だけど六畳と・・・」

全員のブーイングは鳴り止まなかった。僕はまだ俗人なのだと察知した。
頭の中で音楽が鳴り響いていたドボルザーク「新世界」。

まりこ「みんな、ありがとね・・・・」

気丈なまりこの目が緩んだように感じた。未来に終わりがある涙かも知れないと思ったのはぼくだけではない。

,ラウル「マリコ、コッチコソ、アリガトウ」
バッチャン「そうだよ、まりちゃん」

ここから五分の沈黙があったと記憶する。俯瞰グセのぼくは次の言葉を考えていた卑怯な人間だ。

ロクジョウの頭部は少しだけ歪み、特に後頭部が垂直に首まで降りていた。

聖家族のような生活も二年目の秋をむかえていた。
今年は落花生と南瓜が順調で、自然農法の直販を「ウーファールーパー」の名でネット販売をすると大当たり。
月収もサラリーマン時代ほどではないがそこそこ生活をしていけるぐらいにはなっていた。これもみんなのおかげで、到底一人では叶うことはなかったろう、と思う。

特にロクジョウの存在は大きく、彼のために頑張れる自分がいたのは間違いない。僕だけではない。ラウルもバッチャンもみな同じものを感じていたはずだ。数ヵ月後ぼくは農業生産法人を立ち上げ新たな農業スタイルを模索し始めていた。経理まりこ、流通ラウル、営業バッチャン、生産は僕で代表は一応、西園寺光一ボクとなった。


ロクジョウもつかまり立ちと、カタコトの言葉と、生きるということを実践していた。

それぞれが、それぞれの未来を考えていた時期だった。

まりこ「あのさ、やっぱり今の畑の面積では狭いと思う」
ラウル「三倍のヒロサガ、イルネ」
僕「.・・・そうだね.」

ぼくは人生の中で初めて自分の意見を言えた瞬間だった。それは意外にもすんなりとこぼれ出たのには驚いた。

僕「僕は農業のDESY-LANDOを作りたいと思ってる」
バッチャン「いい、いいよそれ、ナイス、ナイス!」
まりこ「バッチャン、DESY-LANDOいったことあるの?」
バッチャン「ないけど、ワシの会社だから」
僕「バッチャン、大丈夫・・・・?」

青天の霹靂という字体がぼくは昔から好きだった。
翌日ラウルが神妙な面持ちで僕のところにやって来た。

ラウル「コウイチ、サイオンジキミコ、ッテ、シッテルカ?」
僕「しらないけど」

ラウル「フォーブスノオカネモチバンズケデ13イ。ディヅニーノハナシハホントウノコト、ダッタ。ソレダケジャナイ、フナガイシャトホケンジギョウモヤッテル」
僕「ウソでしょ」
まりこ「ほんとみたいよ・・・」

だからといって僕たちの関係がギクシャクしたり懐疑的になったりはしなかった。いつものような関係がきっちり保たれていた。
バッチャンのとてつもない営業を除いては。バッチャンのチカラを知るのはこれからだった。

バッチャン「ここも手狭なんで、鹿児島の大隈半島(オオクマ)半島全部買おうかと思ってるけど、どうよ、みな」
まりこ「バッチャン本気?大隈半島って愛媛県ぐらいあるのよ」
僕「それよりどうやって、買うの?」
ラウル「クレイジー!!!」
バッチャン「これからは世界の過疎地にDESY-LANDOを創るんじゃわい」

ロクジョウを肩車しながら、ロクジョウの紅葉のような手を天高く広げていた。

バッチャン「まかせなさい」

数日後、手狭な事務所に黒塗りの車が何台も止まった、と記憶している。鹿児島大隈半島出身の農水大臣を筆頭に、経産省、文科省、総務省の大臣クラスが次々に馳せ参じてきた。それぞれの大臣クラスの面々が恭しくバッチャンに頭を下げていたのが印象的だった。

バッチャン「じゃあ、みなさんお願いしたよ」

黒塗の車はクモの巣を散らすように霞ヶ関へ戻っていったのだろうと思う。これはすべて僕の想像で事実だったのかは今でもわからない。
僕たちは人生のトップギア七速という未知の領域に入ったかもしれない。

ほどなく僕たちは、大隈半島へと移住した。

住所は鹿児島県肝無郡肝有町横田3980番地。

ぼくもまりこも故郷だが、バッチャンラウルは異国の地であった。

いちばん楽しんでいたのがラウル、次がバッチャンだった。鹿児島の甘い醤油も、温泉も、鳥サシも、見事な農免道路も・・・
見える景色すべてが彼らの五感と同化したようだ。
これはまりこも僕も同郷として感じることができないものだった、と回想する。

ロクジョウはイキル、イキルということばをこのころから連呼していた。そう感じたのはぼくだけではないと確信するし、言語は紙一重で
ロクジョウの脳裏から発せられる音が「kill」ではないことも同時に確信していた。

僕たちの構想は現実に向けて走り出していた。

「けんぽの宿」という巨大施設跡地を拠点に僕たちの理想が走り出した。バッチャンは県知事を筆頭に行政回りを確実にこなし、まりこは婦人会生産部に入り地元の人たちとの交流に努めていた。ラウルは
小学校のALTアシスタントリーディングティーチャーになり学校関係の絆を深め確実に信用を得ていた。ぼくは農協関係とは別に自然農法の仲間集めを行い、確実に仲間を増やしていた。

この下準備だけで半年が過ぎようとしていた。

けんぽの宿跡地は20ヘクタールあった。
この敷地をテーマ分けした区域でそれぞれのコンセプトを持たせた。

「水」「風」「太陽」「土」それぞれの下にサブコンセプトとして
「喜」「怒」「哀」「楽」をぶら下げてみた。

ヒトはその中でいかに自然に対して利他的に生きられるかを模索しようとしていた。

「農」とういう偉大な人類の発明をもう一度、僕たちの手の届く場所に引き戻したい、僕はそう考えていた。それがぼくたちが目指している「農業のDESY-LANDO化」計画なのだ。

人があたりまえに生きられる「NORMALIZATION 」の世界を構築できるのでは、と、その時、漠然だけれど・・・・感じた。

まりこ「そろそろ会社名決めない」
バッチャン「チャンとしたホームページやらフェイスブックもやらんと」
ラウル「バッチャン、いつの間にそんなこと」

******
「農未来空間/KUMASO」
      ********
まりこ「のうみらいくうかん、くまそ」
ラウル「NOUMIRAIKUUKANN・KUMASO」
バッチャン「ノウミライクウカンクマソ」


仲間集めにはそう時間はかからなかった。ネットの恩恵と人脈であっという間に人が集まった。
驚いたことにヨーロッパからの賛同者が多く(これはラウルの英語でのHPが功を奏した)、ボランティアではなく聖家族としての仲間を本気で募集した。たとえばサグラダファミリアのような羊水に漂う仲間を。

ロクジョウはこのころからクレヨンで大隈半島を描き出していた。誰に強制されることもなく

「農未来空間/kumaso」の聖家族移住会員は世界20カ国から100名を超え、自宅サポート会員は五万人を超えた。
移住会員はサポート会員へ安全な食を届けること、そしてサポート隊は年額日本円で十万円を納めるシステムとした。
50憶の資金で大隈半島の限界集落を集落ごと年契約で借り上げた。

大隈半島のお年寄りはわずかな年金に加え、借り上げ料が一律一人月に五万円程度入るよう設定し「農未来空間」にも自由に参加できるようにした。
予想外の展開では限界過疎集落の住民と聖家族会員がお互い尊敬し合える間柄に発展していったことが大きな収穫であった。
文化や歴史などすでに大隈半島はいい意味での「るつぼ化」していた。かりにニューヨークが人種のるつぼといわれるのなら、ここはまさしく「自由のるつぼ」であったはずだ。

ロクジョウのクレヨン画は優しさと郷愁を漂わせ、すでに大きな世界の絵画コンクールを総なめにしていた。ロクジョウは四歳になっていた。


バッチャン「そろそろワシは引退かな」
まりこ「なにいってんのよ。まだまだこれからじゃないの」

笑っているバッチャンの亡骸は、十日後丁寧に手造りの棺桶に納められた。
僕たちは誰一人泣かなかったと、記憶している・・・・・。

無心「色即是空」

******

・・・・それから四十年の歳月が流れ、僕たちはバッチャンのさかんだった年齢に追いついていた。

当時日本の農業は衰退すると杞憂されたが、四十年後の今現在、農業人口は80パーセントを超え、先進国一位になっていた。GDPは世界最下位となり、経済のシステムは自給自足体制へと突入していた。

消費は美徳でも満足でもなくなっていた。

首都は地震の少ない鹿児島に移転し、大統領制が導入されている。

日本は「KUU☆UMASO共笑国☆」に国名を変更 海外からの観光客は年間一千万人を突破した。

豊かな食と空気と水、最も重要、なのが「時間という空間」を提供できていることだ。訪れる人々は「徴農制」という独自のシステムのなか、強制ではなく共生の世界の中イキイキとした神聖な労働に明け暮れている。
生きている実感を匂いで感じられる世界がここには存在している。


無心「  」

初代「KUU☆UMASO共笑国☆」大統領は無論
ロクジョウである。

かすかな土の匂いが僕の鼻孔を通過した。

・・・生きていたよかったと感じた僕の瞬間である。

            完

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