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DAY1 「したい」への諦念と意思

担当:こむぎ

 やとnoteに手をつけ始めたよ!

 オモシロな文章を見つけたために書きとどめておくね。

 自分でも見透しきれないさまざまな可能性が自分のなかに溜まっていた準備の年代が過去となると、だれでもめざす標的を自分の正面のせまい角度にしぼって進むようになり、技術者、法律家、セールスマン、独立起業、教職など、なにか専門の仕事につき、自分の生活を枠でかこむ。
 どの仕事をえらぶかでは、好きな仕事、性にあった仕事をしたいという希望にかなったものをえらびとるのはもちろんのことではあっても、職業として生活をいとなんでいるあいだには、「したい」と望んでいた活動欲が追々と形をかえて、課せられたつとめを「はたす」遂行欲で自分をみたすようになってくる。こどもから青年までは「したいことをする」のがたのしみだったが、「すべきことをする」営みのなかで、生きることの充実感がえられるように変ってくる。青年のころに夢みた自分の将来像は少々ならず手を加えられていじけてしまったけれども、そこには諦念の決断と衝動に自分をはげます鞭打ちがあたらしく生れてくる。若い野獣は衝動に突きあげられて思う存分跳ねまわっていたが、衝動という裸体に諦念と意思の着物を着せることで、私たちはまぎれもない人間の格をそなえるまでになり、世の中で生きる権限をみとめられるようになる。
                (島崎敏樹『生きるとは何か』による)

 なにか後半の文章がオシャレだなとか思ってたのだが、パと読んだときは大人になる過程で現実という着物を着させられるんだね。という風に解釈したよ

 個人的には「諦念と意思の着物」っていいなって思って、”諦念”(現実をみる)とともに”意思”も併存してるのが、日々の営みが「ただすべきこと」にとどまらない余地がある、と希望チックなことを伝えてくれてるのかと解釈しました。

 ま、なんというか、前半あたりでは子ども(青年)→大人になるにつれて「したい」→「すべきこと」に変化してしまうから、もはや無理矢理ものごとをこなしてるというような「大人に希望がないな~」な文章かなって思ってしまったけど、

 決してまるごと変化してしまうのではなくて、「衝動という裸体に諦念と意思の着物を着せる」とあるように、ベースの”衝動(「したい」)”は存在するんだよね。

 世の就活が「したい」を基礎にして「すべきこと(仕事)」に繋げるのを目指すことと関連しなくはなさそだね

 (あそこまで掘り下げさせられるのは意味ワカラン😖だけどね

それこそ「なんかおもしろそうだからしたい」という”衝動”じゃだめなのかな❗❗)


 私は現代文苦手だし、なにかわかんないけど考えさせられるな~な感想を書くだけになってしまうこと、

 およびこの引用文は「生きることの充実感」が何に基づくか、また生きるとは何かということを本旨にしたものであり、「生」をテーマにした文章だから私が着目したことは主旨ではないね ということは留保しておくよ、、


 ちなみにこの島崎敏樹さんは精神科医らしいよ


ではでは


葉月がいつこのnoteに気づくかな👀💗💗💗(書く書く詐欺してた)


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