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山里亮太さんの「ボス」戦略がすごい

「試合後、終電間近にもかかわらずイチローの現役最後の姿を見るため、ほとんどの観客が帰らずに待っていました。イチローの再登場を待っている三十分間、私は『頼むから出てきてくれ』と心から祈っていました。出てこなかったらイチローが積み上げてきたものが全てパーになるところだった。『絶対に出て来い』と。もう生きた心地がしなかった」
「週刊文春 60周年記念特大号(2019年4月4日 )」

文春に掲載されたイチローの父・鈴木宣之さんのインタビューだ。これを読んで野球好きの友人が「お父さんの発言は、『一朗』表記にしたらよかったのにね」と言った。確かにその方が親子という特別な距離感が見て取れていい……と思ったのだけど、この記事をよく読むと、高校時代のチームメイトの発言についてはすべて「一朗」表記となっていて、むしろ実の父の発言部分だけが「イチロー」と書かれている。

これはおそらく、誤植ではなく故意だろう。記事の趣旨が親子の確執(その真偽は不明)についてなので、意図的に距離を作っているのだと思われる。いやらしいが、うまい手だなと思った。相手をどう呼ぶかは、その音数の少なさと裏腹に多くの意味を含有するからだ。

先日、家の近所の居酒屋で南海キャンディーズの山里亮太さんを見かけた。

ぼくは、2006年に出版された半自伝『天才になりたい』(改題された文庫版も素晴らしいです)を読んで以来の山里ファンである。好きな芸人さんを5人挙げろと言われれば確実に入ってくるし(順位は時期により変動)、今期からはじまる彼のレギュラー番組はすべて録画予約してある。

山里さんは最寄り駅を公言しており、いまの家に引越したときから、近所にお住まいであることはわかっていた。いざ出くわしたときのシミュレーションもばっちりで、かける言葉も決めていた。「いつも応援してます!」ちがう。「本買いました!」ちがう。「しずちゃんより山ちゃん派です!」ちがう。

「ボス」。これだけでいい。このたったふたつの音さえ発すれば、こっちの言いたいことは全部伝わり、初対面であっても山里さんとの距離を一気に詰めることができる。赤いめがねの奥で親しげに笑う顔まではっきりとイメージできた。「ボス」は、対山里さんにおいて魔法のことばなのだ。

「ボス」は、毎週水曜深夜1時から放送のラジオ番組「山里亮太の不毛な議論」における山里さんの別称だ。この番組には、ラジオのメール読みによくある「山里さんこんばんは」「こんばんは」というやりとりがほとんどない。代わりにあるのが「ボス、おつかれさまです」「うむ」というやりとりだ。

ビートたけしさんでいう「殿」、萩本欽一さんでいう「大将」にあたる呼び名になるわけなのだけど、たけしさんたちと違うのは、山里さんがこの呼称を努めて、ラジオだけ、それも『不毛な議論』リスナーだけのものにしている点だ。テレビではもちろん、昼のラジオでも使わない。

結果、彼を「ボス」と呼ぶのは、深夜の放送を毎回聴く熱意のあるファンだけになる。たった二音でどれぐらい好きか伝えられ、一気に距離を詰めることができる構造を意図的に作り出しているのだ。ほんとうにうまいやり方だと思うし、ぼくは彼の、こういった戦略的なところが大好きだ。先述した本にはこういう話が山ほど出てくるのでぜひご一読いただきたい。

テレビ・ラジオを合わせた山里さんのレギュラー番組の中でも、もっとも自分の話が多く(ひとりで話すので必然そうなる)、放送が深夜におよぶこの番組のファン=いちばん熱意のあるファンと位置づけ、その人たちをえこひいきし、手厚く扱う。その選別を、聞き取った瞬間反応でき、口下手な人でもさすがに言える「ボス」というたった二音(何度でもいいます)の言葉によって実現しているのだ。すごすぎる。

まあぼくは、1メートル未満の距離でがっつり目が合ったにもかかわらず、その二音が出せなかったんだけど……。

これだけお膳立てしてもらって準備もしてたのに緊張のあまり声をかけられなかったぼくのダメっぷりはさておき、「呼び方」にはいろんな意味がありますよねというお話でした。