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こまめにチャージしたい「自己肯定感」の話

「どうしてそんなに自己肯定感が強いんですか?」

つい先日こう言われて、考えこんでしまった。確かに昔から高い高いと言われてきたし、もう少し抽象的な言葉で「本当に自分のことが好きだね」とも言われてきた。自覚もしている。でも、その理由を深く考えたことはない。

ひたすら褒められて育ってきたから? いや、そんなことはない。運動はからっきしだったし、勉強もぜんぜんだめ。クラスの中心にもいなかったし、異性から黄色い声援を浴びたこともない。これは当てはまらなさそうだ。

成功体験がたくさんあるから? うーん、32年も生きているので無くはないけど、失敗だってそれ以上にしている。朝電車に乗るとき「このまま轢かれて、ギリギリ再起可能な大けがで入院できないかな。そしたらいろいろ許されるよな」と思ってホームを見つめたことは一度や二度ではない。

どちらの説ももっともらしいが、芯をくっているようには思えない。

自分のことが嫌いな赤ちゃんはいない

生まれつき? というのも考えた。「才能だ」「そういう風に生まれてきたから」と言ってしまえば簡単だけど、ぼくはそうは思わなくて、スタートはみんな同じぐらいなんじゃないだろうか。だって、自分のことを嫌いな赤ちゃんはいないでしょう? 自分のことを好きじゃなくなるのは、自分が他者と比べて劣っていると感じるからだとすると、「他者」と会う前に自分を嫌いになるのは難しい。だから、生まれた瞬間から「ぼくはぼくが嫌いだ!」と思っている子どもはいないはずだ。

こうやって仮説を出してはつぶすなかで、ひとつ、しっくりくるイメージを見つけた。バッテリーだ。要は自己肯定感ていうのは、些細なことで増減するスマホのバッテリーみたいなものなのだ。怒られりゃ減るし、褒められれば増える。減りすぎるとシャットダウンしてしまうし、過充電もまたよくない。

子どものころは家族がほめそやして充電し、高めの数値をキープしてくれるけど、大人になったらちょうどいいところ、できれば100%近くを保てるように、自分でケアしないといけないのだと思う。そしてぼくはきっと、たまたまこのバッテリーが充電されやすい気の持ち方をしているのだ。コンセントを見つけては充電器を刺す、スマホ中毒者のように。我ながらいやしい。

というわけで、まいにち暮らすなかで自分がやっている「充電」について考えてみたのでいくつか紹介したい。

他人じゃなくて、自分が決めたことをやる

ぼくは人に決められた目標を追うのが苦手だ。というか、できない。そして、できなかったときに「だってオレが決めたんじゃねーし」と開き直れる根性もない。だから、「今期はこういう目標を追ってくれ」と言われてそれができなかったとき、他者との約束が守れなかったことに凹む。バッテリーが減る。

営業マンをやってたときこれに気づき、以後、人にもらった目標をできるだけ自分で「決め直す」ようにしている。「5件以上売ってこい」と言われれば「(100件電話すれば1件取れるというデータをもとに)500件テレアポする」とか。極力自分でコントロール可能で、「がんばれば必ずできること」にするのがコツだ。もちろん達成できないこともあるんだけど、その時はプロセスに問題があったと建設的に考えられるし、何より自分だけは「500件電話した自分」のことを褒めてあげられるので心が健康だ。

ちなみに上記を突き詰めた結果、自分で立てた目標を自分で追うのがいちばん楽であることに気づき、もうそれしかできねえやと思って起業したようなところがある。いま、このストレスは皆無だ。

あきらかに「えらい行動」をとる

経営者の美談として「毎朝誰より早く来て、従業員のためにトイレをピカピカにしている」みたいなことがよく語られるけれど、それって実は自分のためにやってるんじゃないかなと思う。そうじや洗濯は、めんどくさいけど誰かがやらなきゃいけないことの代表格で、丁寧にやると無条件に自己肯定感が高まる。だってそれをやる人は、どう考えても「えらい」んだもの。

だからぼくは、仕事に行き詰まったりミスをしたりして電池が切れてきたなと思ったら、PCのフォルダ整理をしたり、机の上をそうじしたりする。自宅なら、食器洗いや洗濯も、お風呂のそうじも気分がよくなっていい。

ちなみにぼくはまったくできないけれど、「早起き」も同様の効果がある気がする。「読書」や「運動」もそうかもしれない。小学校で推奨されたこと、褒められたことをやると、自己肯定感は高まる。生活のなかに「よくできました」を増やすのだ。

お前の信じる「オレ」を信じる

これがたぶんいちばん大事かつありがたいところで、ぼくは自分のまわりにいてくれる尊敬すべき人たちを信じていて、そんな大好きなみんなが信じてくれている(少なくとも、一緒に働いたり飲んだりする価値はあると思ってくれている)自分に、ちょっとぐらい期待してもいいんじゃないか、と思っている。

そんな広義の「仲間」たちに恥じない自分でありたいし、もし可能なら、自分もまた仲間に信頼され、誰かの自己肯定感のみなもとになりたいと思う。

逆に、これがなくなると一気に自分がダメになるのが目に見えているので、頼りにされたら応えたいし、恩の貸し借りは正しく把握しておきたい。ぜんぜん不義理しまくりなんですけどね……。

ちなみにこの、「オレが信じるお前を信じろ」の概念は『天元突破グレンラガン』という超弩級の名作アニメのメインテーマでもあるので、機会があればご視聴いただきたい。

以上です。日付変わってしまった。役に立つのかなこれ……立つといいな。

最後になりましたが、ぼくが思う自己肯定感は、今の自分への自信ではなく、「明日の自分に期待する力」です。未来の明るさを決めるもの。たくさんあった方が不安も減るし、人生たのしいと思います。後天的に身につくものなので、ピンときた方法があれば試してみてください。

コンセントは、そこら中にありますよ。