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「ダサいと思われたくない友だち」にどこで会ったか。

2012年4月。26歳だったぼくは、新卒で入って4年勤めた広告の会社を退社し、出版社に転職した。肩書きが「ディレクター」から「編集者」へと変わり、新しい仕事をはじめたその矢先、ぼくは来た道を戻るかのように、とあるご隠居がはじめた広告の私塾へ通い出した。水曜日だけ早く帰りたくて……と後出しで交渉したとき、新しい上司たちは困惑していたように思う。

これからは売り方を知ってる編集者が必要とされるからとか、同世代の志あるクリエイターたちの中から著者を探そうとか——そういった高尚な目論見は何もなくて、ただただ学校の申し込みと転職試験のかぶりによって生じた、学校側からすれば詐欺と言われても仕方のない(何せ選考があった)参加の仕方だった。あたたかく迎え入れてくれた先生と同期には感謝するばかりだ。

そうして通い出した30人程度の私塾。その初回、Oという札幌出身のコピーライターと隣り合わせた。高身長で小顔で清潔感の権化のような男だった。荒俣宏を尊敬する物知りで、森見登美彦を愛する読書家でもあった。彼は同世代とわかるとすぐタメ口で話してくれて、ぼくもそれに合わせた。授業後にごはんに誘ってくれて、渋谷で餃子か何かを食べたと思う。「すぐに意気投合!」という感じでもなかったが、ぼくは好印象を持って連絡先を交換し、帰路についた。

そこから数ヶ月間塾で隣り合って勉強し、毎週のようにごはんを食べた。供に夜なべして課題に取り組み、これからどんな仕事をしていきたいかといった青臭いことを語り合ったりもした。未熟でどうしようもなかった当時のぼくらを唯一褒めてもいいと思うのは、互いの「望み」を茶化さなかったことだ。「意識高い系」という言葉が幅をきかせていた当時、そういう友だちは希少だった。

私塾を卒業したあと、ぼくらは互いの友人を紹介し合った。いい紹介は、丁寧に乾燥させて組まれた焚き火みたいなものだ。種火さえつければあとは勝手に燃えていく。ぼくらは自然とそれが出来た。出張中のOと駐在しているぼくの後輩が飲みにいくこともあれば、Oの同期にぼくがエッセイを依頼することもあった。Oと会わなければ、ぼくは今の会社を作っていないかもしれないし、ぼくと会わなければ、Oが京都に移住することもなかったかもしれない。そうして互いの人生に作用し合ってきた実感がある。

なぜそんな出会いになったのか。

先日ふたりで離島に行ったときに考えてみた。気が合ったのはもちろんだが、やっぱりこれは、邂逅した場所のよさに尽きる。

同世代で、所属する組織があって、仕事も下っ端だしなかなか自分で自分の時間をコントロールできないなか、なんとか頭一つ抜けだしたくて、土日に課題をやらないといけないような学校に通う。そういう人だけが集まる場所で会ってるからこそ、恥ずかしがらずに正しい意識の高さを共有できたし、それを持続できたのではないかと思う。

「あいつにだけはダサいと思われたくない」という友人がいるのは、幸せなことだ。

今度はじまる「バトンズ・ライティング・カレッジ」、運営としてそんな出会いを提供できるようにしたいなと思っています。大人になって、仕事以外で苦楽をともにするのって、いいもんですよ。

〆切りは5/31(月)いっぱい。ご応募お待ちしてます。