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すごい親、ふつうの親、無知な子

「それは親がすごいね」と思う話を、たまに聞く。だいたい中学に行くぐらいまでのエピソードが多い。いきなりアメリカの寄宿舎付きの学校に放り込まれたとか、哺乳類の解体を手伝わされたとか、『13歳のハローワーク』を渡されて「ここにない仕事につけ!」と言われたとか、そういうやつだ。

ぼくが友人から聴いた「それは親すごすぎ」エピソードに、10歳の誕生日プレゼントが「こわれたパソコン」だったというのがある。エンジニアだったお父さんはそのプレゼントを手に「これを一緒に直して使えるようにして、そしてプログラミングをやろう」と提案したそうだ。聴いたとき、発想と教養のレベルが違うなと思った。

実際彼はこのプレゼントで存分に「遊び」、情報工学を修め、今や立派な「コードの書ける大人」になっている。

こういう話を聞くたび、自分が親になったら子どもにどんなアイデアを提供できるだろうかと考える。読書感想文の添削ぐらいしてやれるだろうかとか、何歳でこの本薦めようかなとか、あの映画は一緒に観たいなとか、まあ、親になる予定はないんだけれど。

ちなみにうちの親は、特別な発想の教育をしてくれるタイプではなかった。しかし、母親の「無知コンプレックス」が強かったからか「わからないことがあったらすぐ調べなさい」と、これだけはしょっちゅう言われた。

滋賀の田舎、コンビニまで徒歩30分、書店まで徒歩1時間の場所に住んでいたぼくが「わからないこと」、特に学校の先生に聞いても「わからないこと」に出くわすのはだいたい「こち亀」で、作中に出てくる「お下劣」や「マッキントッシュ」、「カワサキのバイク」、「著作権フリー」という言葉を辞書や百科事典、叔父の仕事場で少しだけさわれたインターネットを使って調べ、学校で自分しか知らない(と当時は信じていた)ことを増やしては悦に入っていた。

いま思うと気持ち悪いし、調べていたものもぜんぜん大したことがなく、「無知の無知」っぷりに恥ずかしくなるが、編集の仕事をしている今もやっていることはほとんど変わらない気がする。

最近「くっくっく。これはおれしか知らんな」とほくそ笑んだページのリンクを貼って、今日の記事を終わりにしたいと思います。