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季節を感じることは贅沢なことかもしれない

友達に誘われて今年から句会に通うようになった。初めて参加した句会で、自分の句を他の人に選んでもらったことがうれしくてはまった。

句会は匿名で選び合うというのが良い。仕事をしていると、どこの誰だからという理由で認識されることが多いし、仕事を依頼する側としても同じような理由が多い。実績と信頼を積み上げていくのは良いことでもあるけれど、全く匿名で俳句を出し、作品だけを初めて会った人と平等に批評し合うという体験は新鮮だった。

次の句会のために、課題の季語が決まり、その季語について俳句を考えるサイクルができた。机に座ってても思いつかないから、歩くときはだいたい季語を頭に入れて道を見るようにする。歩いているときに見える風景と、そのときイヤフォンで聴いていた歌の歌詞がつながったりして、面白い言葉の組み合わせが見つかる。思いついたらスマホにメモする。

歳時記は買ったけれど、課題になった季語の部分を読む程度で読み込めてはいない。でもわずかな数の季語を知っただけで季節に対して細やかに感じよう、見ようとする視点が感じられる。俳句を考えることは、季節を色々な視点で見ることのようだ。

ぼーっと見る風景の中でふと南天の実に気づいたり、これを遠くから見たらどうなるか、それとも虫の目のように近くから見たらどうなるか、天上から見下ろす神様の目線を考えたらどうかなど想像する。同じ物を見ても頭の中に目をたくさん持つと、何倍も楽しい。季節は春夏秋冬以上の数があるんだなと気づいた。

もう四年以上前、編集者として働くようになったとき、手紙やメールで時候の挨拶を見たときは驚いた。前の仕事では手紙を書いたことはほぼなかったし、メールはぜんぶいつもお世話になっております、で始めるものだと思っていた。
時候の挨拶か、かっこいいなと思い最初は時候の挨拶と検索して使いやすそうなものをコピペして使っていた。

慣れてくると、自分の言葉で季節を感じた通りに書けるようになった。「さむさがゆるんで春めいてきました」とかその程度だけど、時候の挨拶をきっかけに季節の変化を感じとろうと思うようになった。東京は都会だけど、街路樹が芽吹くのを見つけたり、道端の知らない人の植木の花がゴージャスに咲いているのを見たり、季節感は意外とあった。

最初は時候の挨拶なんて堅苦しいと思ったけれど、別に堅苦しいことでもルールでもなく、自然な挨拶の一種なんだと思った。

道で花を見つけることなんて、最初の仕事のときはなかった。とにかく忙しかった。周りにそんなことを言っている人はいなかったし、季節を感じる余裕はなかった。ゴールデンウィークや夏休みを心待ちにして、あっというまに寒くなって忘年会、いつのまにか新入社員が入ってくる、みたいなことの繰り返しだった。そもそも通販で売る洋服やカタログを作っていたから真夏に冬服の撮影をするなど、季節はめちゃくちゃだった。

その頃を思うと、季語を頭に入れながら道を歩けるようになった今は、ずいぶん時間にも心にも余裕ができたと思う。

季節を感じるのは、余裕がないとできない。俳句は道具もいらないしどこでも誰でも始められる趣味だけど、心の余裕がないとできないことなのかもしれない、だから年配の人が多いのかもと思った。

さて、ここまでは先週の土曜の朝、京都に向かう新幹線の中で書いていた(わたしはだいたい思ったことをばーっと書いて1日後とかに整えてからnoteに出すようにしている)。

京都についたその日の午後、友達との待ち合わせ前にiphoneが使えなくなり、スマホ無しで京都旅行を過ごすことになった。俳句について心に余裕を持ちながら優雅に書いていたこのときは、まさかiphoneなしで京都で過ごすことになるなんて、まったく思いもしていなかったのでした・・・。

でもスマホが使えなくなって気づいたことがたくさんあったのでそれはまた別の機会に書いておこうと思う。

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