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思い出したこと。

 重度障害の参議院議員が登院するに当っての経緯があり(割愛)、障害者は社会から差別されているんです。というような文言や当事者のtweetにここ数日出合い、或ることを思い出した。いや、忘れてはいなかった。これは誰にも打ち明けたことの無い、治らない瘡蓋みたいな記憶で、参議院選のあとから何かこのことを書こうとして、書いては消している。

 ちなみに、「障害者」なのか「障がい者」なのか「障碍者」なのかは、自分の読みたい漢字を与えて勝手に替えてください。

 小学6年生の合宿でのことだった。
 通っていた小学校は勉強に厳しく私学難関中学を受験する子どもが殆どで、「エリートを育てる」方針があった。受験戦争世代なのだ。つまりある種〝鼻持ちならない〟と云われても仕方がない場所だった。その、エリート主義を繰り出してくることの裏返しのように、人権教育にも熱心だった。
 合宿で、詳細は覚えていないが10人くらいの班ごとに教諭がついたとき、私たちは彼から「障害者を差別してはいけない。自分たちは酷いことをしているんだぞ」というような話をされていた。歩けないひとや、脳性麻痺、生まれつき障害のあるひとの話が続いていて「お前たちはそうやっていじめるだろう? 差別するだろう? 解ってんのか?」というような語調で話は続いた。彼は隣のクラスの担任で、フレンドリィな反面、叱責は感情的でよく怒鳴り、手を出すこともある。そのときの口調もきつかった。
 そしてそのあと、生徒ひとりひとりが意見を云わなければならない。そのとき、障害があるからと云って差別するとは限らない、というようなことを私は云った──はっきり思い出せないのだが、そのような反発した言葉を述べた。みんながみんな差別したりしないし、そんなのは違う、みたいなことを云ったのだと思う。教諭は激昂して(しかし彼が話を聴かせるには絶好のチャンスを与えられたのかも知れない)否定し、差別しないと云っている人間ほど差別しているんだぞ、と続けた。


 Bちゃんは私の住んでいた同じマンションのAちゃんの妹で、障害児だった。私とAちゃんが同い年、私の末の弟とBちゃんが同い年、私のところの三人きょうだいと、AちゃんBちゃん姉妹は友だちで、よく一緒に遊んだ。
 Bちゃんは生活の殆どのことが自力で出来ない。くちも利けない。お母さんがトイレで抱えて介助しないと用も足せないし、それでも難しい。家では横たわって教育TVを観ているのが常で、出掛けるときは小さい頃はベビーカー、少しおおきくなったらそれ専用の車椅子だった。勿論誰かが押さなければ動かない。例え電動車椅子だったとしても(実際は違うのだが)たぶんBちゃんは操作も出来なかっただろう。小学校は養護学校にスクールバスで通う。頸の骨が頭を支えていられないから、スクールバスで座っているあいだに背骨が傷み、Bちゃんのお母さんは、市内を走るスクールバスの本数が増えたら長時間座っていなくても良いので増やして欲しい、とTVのインタビューに出演したりした。のちには椅子席ではなく、スクールバスのなかの横たわる場所に乗せられていたのだと記憶している。
 でもBちゃんは、逢いにいくと嬉しそうに笑うし、学校では色んなことをしていた。修学旅行はUSJで、「(堂本)剛くんが好き」で「LOVELOVEあいしてる」が好きで、歌をうたうとまた嬉しそうにBちゃんは笑った。笑い声はあまり立てられないし体も手足も動かないけれど、口元と瞳が喜んでいた。きらきらした黒い瞳だった。何も出来ない子は悪いことも出来ないし、喋れないから悪口も云わない。そういうとき、本当に瞳は澄むものなのか、と思った。宝石のような眼だった。
 私たちは仲良しだったと思う。
 夏休みになると公園で遊んだり、プリクラを撮ったり(AちゃんがBちゃんを抱え上げてカーテンの向こうに入り、一緒に写った)そして夏のクライマックスのように五山の送り火の日は、大文字山が見える実家のマンションではしゃぎ、送り火のあとで手持ち花火をした。勿論、Bちゃんも一緒だ。AちゃんはBちゃんの車椅子を力強く押して、公園までの坂道を上り下りした。

 私は、男性教諭の話が嫌だった。Bちゃんは友だちだ。うちのマンションのひとたちはみんな、Bちゃんを可愛がっている。私はマンションの近所の盲人専用老人ホームのことも、Bちゃんを迎えにくる養護学校のスクールバスに乗った子どもたちのことも、何もばかにしていたりしない。それなのにどうしてこんな話を聴いているのだろう、教諭に結論を押し被されてくると、涙が出てきた。恥ずかしくてくやしくて、隠したい。俯いたり欠伸の真似事をして堪え、涙はどんどん溢れてきて、仕方なく手洗いにゆくと云って部屋を出た。兎に角恥ずかしかった。云いたいことを発言する能力が自分に無いのは激しい屈辱だった。

 教諭の語調は厳しかった。
 五体満足を当たり前だと思っているだろう? 感謝出来ていないだろう? もっと感謝しろ。
 否定は許されなかった。どのようなレイヤーの切り取り方も。

 私が正しかったとは思っていないし、しかし教諭が正しかったとも思わない。私は、決めつけられるのが嫌だったのだ。Bちゃんと私たちのあいだに、他人がグループ分けの線を引いたことも、とても嫌だった。

 手洗いで暫く鏡を睨んで、かおを洗って部屋に戻った。

 仮にも小説を書いている人間の私は、こんな鈍くさい調子の文章を書いていることに困っているのだが、前述のとおりこのときのことを今まで誰にも話したことは無く、介護の必要な人間が参院議員に選出された今、記憶が疼く。文章にしようかなと思った。

 れいわ新撰組から送り出されたふたりの議員に関しては、税金を使うことや介助の時間の決め方が取り沙汰されているので、軽く考えると私の体験は「気持ちの持ち方の問題」、参議院議員の件は「お金の使い方の問題」だと云われるかも知れないがたぶんそれは違う。どちらかをいびつにすると必ず双方に響く。実際、参議院議員に体が不自由なひとがなることについて、罵倒のような文章を見た。そして「重度障害者を差別しないでください」と主張するひとも見た。

 それに伴って、学校に行けなかった、大学に行けなかった、良い職に就けない、という主張も、介護についての不便な状況も、当事者やヴォランティアのひとなどから発されてはRTされてくる。私はわりと今、うんざりしている。私の通っていた(健常者向けの)中学のクラスにいた、脚や手が麻痺して車椅子を使っていた子、難聴だった子、ヴォランティアクラブで手話を覚えていた同級生、大学で出会った支援課のひとたちの働き、大学生になって生活支援福祉のサークルで活動していた弟、そういう私の記憶に、今、隠し布を掛けられてしまったような気がする。(補足すると私が知っているなかでも複数の大学が、障害のあるひとを受け入れている。京都に限った話ではない筈だ)

 普通のことなのだけれど、ひとりひとりケースは違うし、それでも苦しんでいるひとたちは苦しんでいるし、苦しんでいないように見えるひとも苦しんでいる。それが一元化して語られて、圧迫が重い。働きたい障害者が働いているあいだ介護のひとがつくようになったら、働きたくても働けない障害者を介護する人手は、減るだろうか?(しかしそんな話がしたいわけじゃない)

 今、子どもの頃から抑うつ傾向にあった私は精神障害者になり、末の弟は精神薬を大量に飲んで、蘇生したが身体障害者になった。Bちゃんは15歳くらいで亡くなった。末の弟は多感な年齢に同い年の友だちが亡くなったことで、私よりもショックだっただろう。Bちゃんのことを障害者ではなく障害児、と表現してしまうのは、彼女は子どものままだからだ。マンションにBちゃんの車椅子の為に設置された玄関ホールへの小さなスロープが、淋しい。

 私は目下、就職したことが無い。毎晩眠りに就き、朝に起床してかおを洗い身支度をすることを一週間さえ完遂するのが困難な人間が就職するのは難しい。
 高校生のときに遭った性被害のPTSDの件で市役所やカウンセリングに何度か行った。
 カウンセラは云った。
「で、今はセックス出来るの? なら良かったわ」
 市役所の福祉課の女性は云った。
「でも今は結婚出来たわけですよね? じゃあ良いじゃないですか」

 ちょっと何を云われているのか解らないし私は泣くし夫もかなしい気持ちになるし、これは「未婚既婚差別」だ。というか、単に悪く云われただけだ。差別というネームを付けた瞬間、話に方向性がついてしまう。

 私だってこういうことがあってつらいんだ、と云いたいわけではない。でもだからと云って他人ばかりが主張していたら心穏やかではいられない。れいわに否定的なことをウェブで云うと、「敵」のシールが貼られてしまいそうで、それが凄く嫌だ。私は40%は味方で40%は敵で残りはグレー、それくらいの繊細な認識をお願いしたい。

 主張めいたことをあまり書きたくなかったけれどそれに寄ってきた。もう止めたい。
 子どもたちに「障害者を差別してはいけません、助け合いましょう」と教育したくないな、と思う。「私たちは助け合いましょう」それでいい。
 RTひとつで行動した気にならないで欲しい。
 そして、私の感情の素材を、あなたから渡してこないでください。

併記:中学と高校1年生のあいだ同じ学校で同じクラスだったりした女の子(車椅子と杖を使用していた)がメールマガジンを編集している、障害のある女性向けのフリーペーパーがあるので、特に歩行などが困難な方でご存じなかったら、参考までに。「Co-Co Life☆女子部」


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