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水都異聞

        

以前、石川貴一氏編集発行の文藝同人誌「薔薇窗」に、襞瀬涼貴(ひだせ りょうき)という男性名で寄稿した、ヴェネツィア及びアンリ・ド・レニエへの憧憬を綴った文章です。
画像は、画廊喫茶Zaroffで開催したニ人展「カルネヴァーレ」会期中イベントで、レニエの「仮面物語」朗読パフォーマンスを行なった時のもの。
自作の仮面を使用しています。

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 われは生まれ出でんとするヴェネチアの前にぬかづけり。如何となれば、今日、この都の亡霊たちは、かく沈黙と夢の祭典なる、深夜の主顕節を祝げばなり                  
(青柳瑞穂訳)

 ヴェネツィア――かつて「アドリア海の女王」と謳われたこの滅びゆく都市、我が眷恋の地を初めて訪れた時、その短い滞在期間はたまたまカルナヴァーレの時期にあたっていた。絢爛たる装いでクラブイベントやパーティの夜を彩るドラッグ・クイーンと呼ばれる女装の麗人らの口からも、目眩めくばかりの衣装と神秘的な仮面を身に纏った人々がサン・マルコ広場を埋め尽くすその祝祭に、一度は臨んでみたいとの想いを聞いたことがある。
 その日ヴェネツィアは、まるで中世・ルネサンスの時代そのままの姿の人々が練り歩く幻惑の都と化す。彼等はカメラを向けても大抵は一言も発せず、優美な仕種でポーズを取る。長いくちばしを持つ白い仮面にペストを追い払う棒を持った中世の医者(そのくちばしの内側にはペスト除けの為に香が焚かれていたという)、自然をシンボライズしたらしい太陽や花や樹をあしらった色とりどりの衣装の列、貴族に貴婦人、ターバンを巻いたアラビア人、中でも身長の一.五倍はあろうかという幾重にも重ねられた衣装で前衛舞踏のようにゆっくりと動きながら回転するパフォーマーの周囲にはカメラを構えた人だかりができていた。そういえば三ヶ月余り滞在していたフィレンツェの街、とりわけウフィッツィ美術館前の広場には路上アーティストが幾人も屯していたが、そのような人々の中にも肌を金・銀や真っ白に塗って丈の長い衣装を纏い、詩聖ダンテや天使等に扮したパントマイマーがいて、彼等は凍りついたようにじっと立っているのだったが、見物人が前に置かれた箱にコインを入れるとやはり一言も発しないまま機械人形のように動いてみせるのだった。
 このウフィッツィ美術館でヴェネツィア派のジョバンニ・ベッリーニの絵画に目を奪われた私は、ヴェネツィアを訪れた際もアカデミア美術館に立ち寄り、ベッリーニやティントレット、ヴェロネーゼ等の作品を堪能した。しかしサン・マルコ教会へは人波に揉まれ近寄ることも叶わなかったし、カフェ・フローリアンのテーブルでくつろぐという夢も潰えてしまった。
 そもそもこの幻想的な街への私の憧憬は、アンリ・ド・レニエ伯の高雅たる文章に寄るところが大きい。その内容はもう朧に記憶の襞に畳み込まれてしまってはいるものの、近代化の進む一九世紀パリに生きつつ一八世紀イタリアに思い焦がれる「生きている過去」の主人公の口を借りて語られる、カサノヴァやロンギ、カナレットの描き出す古きイタリアの魅力。わけてもそれは、恰も時間の停止したかの如き水の都に於いて際立っている。
 パリ旅行の際、その主人公がすぐそばに住み、好んで散策したという、古代の海戦の廃墟を模したギリシア風の列柱の立ち並ぶ池のある、モンソー公園へも出掛けていった。人気のない公園内には様々な芸術家の姿を象った彫刻が点在し、リュクサンブール公園のそれにも増して見事であった。そのような心休まる散策は、カルナヴァーレの最中のヴェネツィアでは望むべくもない。何しろ小さな街である。小径に逸れれば表通りの喧噪も途切れはするものの、やがてまた人の流れと合流してしまう。
 だがさしもの喧噪の祝祭中とて、夜も更けると小径に人影は疎らになり、ややもすれば帰路を見失う恐れがある。実際私は一度ならず迷い、やや不安を抱きつつ、レニエもまた幾度となく行ったようなあてどない散策をしばらく続けた後、これから旅行に出るらしく駅へと向かう親娘に出会い、彼女らの導きによってこの迷路から抜け出したのであった。
 先日再びイタリアを旅行した際には、今度こそ滅びゆく都に相応しく清澄としたヴェネツィアの佇まいを目にすることができるかと、レニエのヴェネツィアへの愛惜の情が存分に込められた「水都幻談」を荷物に忍ばせていったものだが、残念ながら日程の関係で実現できずに終わった。
 そう云えばトマス・マンの「ヴェニスに死す」の主人公アッシェンバハも、美少年タドゥツィオの後を追い迷宮さながらの街の小径を彷徨い歩いたのではなかったか。こちらは避暑客に沸くリド島の浜辺が主な舞台ではあるものの、コレラの蔓延に従って次第に街から人影が消えてゆく不気味さは、やはり運河と橋とで細かく区分されたヴェネツィアの街にこそ似つかわしい。熱に浮かされたように至高の美を追い求める老芸術家は、遂には髪を染め、顔に化粧を施して自分が若々しい青年に戻ったという一時の幻想に酔うのである。屈託のないカルナヴァーレの扮装と比べて、なんともの哀しい「甦る過去」の幻影であることか!
 しかし少年に近づき、この美を掌中にしようとは敢えてしなかったアッシェンバハは、まだしも幻影のうちにこと切れることができて幸福であったのではあるまいか、自らは生きながらえたものの幻影に裏切られることで死よりも辛い別れを二度まで味わった、もう一つの水の都「死都ブリュージュ」の主人公ユーグに引き換えれば。この小説にはブリュージュの街並を写した写真が随所に配されているが、書割としてはむしろクノップフ描き出すところの風景画の方が、憂愁と沈黙に包まれた灰色の街として描かれるブリュージュにより相応しく思われる。
 この物語では、扮装によって幻影は粉々に打ち砕かれる。過去の幻影を演じるのは、ユーグの亡き妻に瓜二つの踊り子ジャーヌである。妻と同じ顔立ちのみならず、同じ黒い瞳と金髪を持つこの女にユーグは惹かれるのであるが、後にその髪は染めたものであることが判明する。二人の女のより完全な一致を夢見るあまり、ユーグは亡き妻のドレスをジャーヌに着せてみようと思い付くのだが、ジャーヌのおふざけでひどい幻滅を味わう結果となる。しかもジャーヌの見せ掛けの慎ましさは、次第に本性の放縦さに取って代わる。
 そして物語は、ジャーヌが妻の形見である、ユーグの命にも等しい一房の金髪を弄び冒涜した為、ユーグがジャーヌをその髪でもって絞め殺すという悲惨な結末に終わる。幻影は飛び去った、と言いたいところだが、皮肉にもその死は二人の女を、もはや見分けすら付かない程完全に同化させてしまう。ここでユーグは「過去に逆戻りした人間」となる。彼は再び妻を失ったのだ。
 いみじくも訳者の窪田般彌氏は、後書きにおいて、この小説でジョルジュ・ローデンバックは同時代に生きたレニエと同様の、過去への共感という心理をもって「生きている過去」としてのブリュージュを描き出したのだと看過している。ヴェネツィア・ブリュージュ。この二つの都市において水は、時を蓄積する器、過去を映し出す鏡として機能するのである。
 ところで、どうしても出典が思い出せないのだが、ヴェネツィアにまつわるこんな挿話を眼にしたことがある。ペストの跳梁する暗黒時代、ヴェネツィアのとある貴族の館では、上流階級の人々が迫り来る疫病の恐怖を、夜毎の華やかな宴に紛らわせていた。最後の歓楽に身を窶す者達の傍らでは、遂に疫病に斃れた犠牲者達の亡骸が、館の窓から下の運河に投げ込まれていたという…。史実なのか否かさえも不明であるが、エドガー・アラン・ポオの「赤死病の仮面」の結末さながらの凄惨な光景ではないか。だがおぞましい「赤死病」の扮装は過去の幻影を甦らせるものではなく、眼を背けることのできぬ現実の恐怖を突き付けるものであった。
 同じポオでも、静止した時の中に佇む死の都は、やはり水を伴って描かれる。この「海の都市」という一遍の詩が、よしヴェネツィアから着想を得たものであったとしても何ら不思議ではあるまい。

 見るがいい!「死神」はみずからの王座を築いた、
 ほの暗い西方のはるかな海に
 ひとり横たわる異様な都に――
 善人も 悪人も 至善のものも 極悪のものも
 すべてがすでに永遠の憩いについた その都
 そこでは 社も 宮殿も 塔も
 (歳月にむしばまれながら小ゆるぎもせぬその塔も!)
 人の世のものとは似ても似つかず――
 周囲には 陰鬱な海面が 風にさえ見放されて
 波も立てず あきらめ切ったように
 大空の下に横たわっている。
 この都の 長い夜の上に
 一すじの光さえ 神聖な天からは射してこない。
 ただ 悽愴の海から昇ってくる光だけが
 水のようにひそやかに 高楼の上にそそぎ、
 更にそそがれていく、遠い のびやかな小塔の上、
 そして 円屋根――尖塔――王城――
 神殿――バビロン風の壁――
 彫刻の蔦と石造の花で飾られたまま
 長い間忘れられている影濃い四阿――
 六弦琴と菫と蔓がからみ合った
 文様の 浮き彫りのある
 数知れぬ壮麗な社――それらの上に。
 陰鬱な海面は あきらめ切ったように
 大空の下に横たわっている。
 その海の上で 尖塔とさまざまな影が入り混り
 あらゆるものが 宙に懸かっているかのよう。
 誇らしげに市中に立った塔からは
 「死」が巨人のように見おろしている。

 この詩の結びはこうである。

 やがて この世ならぬ嘆きの声につつまれて
 深く 更に深く この都が沈んで行くときには、
 「地獄」も その千の王座から立って
 この都に敬意をはらうだろう。
(入沢康夫訳)

 壮麗でありながらも、死の静寂に支配されたこの都に、ヴェネツィアの未来を透かし見るのは私だけであろうか。しかし冒頭に掲げたレニエの詩の告げるように、ヴェネツィアに焦がれ、過去に幻惑される人間のある限り、この街はこれから先も幾度となく甦ることであろう。願わくばこの床しくも煌びやかな装いの女王が、滅びのその時まで、その堂々たる威厳を保ち続けん事を。

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