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#009 女性の自立:確かなキャリアビジョン

「女性として自立して生きるには?」幼少期より母から教えてこまれた「自立」の重要性。「自立」を目指し続けてきた、私の経験と考えを綴っていきます。まず初回になります。読んでいただけたら嬉しいです。

1. 小学生に「女性の自立」を説いた母

「パパとママは早く死ぬし、貴方は兄弟姉妹も親戚もいない天涯孤独だし、借金は残さないけど遺産は残せそうにない。結婚しても相手に何があるかなんてわからない。何があっても一人で誇りをもって生きられるよう、手に職をつけなさい。教育費だけは出すから。」

私は幼少期より母から強く「自立」を促されていた。小学校の頃は「パパとママ死んじゃうの?」と都度号泣し、ただただ来る将来が恐ろしかった。恐ろしかったけれど、どう聞いても正論だと理解できた。だから余計に怖かったのだ。この恐怖を克服するためには、「自立」するしかないのだと、魂レベルで刻みこまれていった。ちなみにこの恐怖感、普通に大人でもストレスだと思う。小学生に共感させるってなかなかハードではなかろうか?

2.「将来の夢」と辛辣なフィードバック

将来の夢

子供の頃、「将来の夢は?」と聞かれたことは誰もがあると思う。スポーツ選手、芸能人、お嫁さん、お金持ち、といったカテゴリから、医者、弁護士、教師といった職業を明確に口にする子もちらほらいるだろう。いずれにしても、「将来の夢」を問われたら、それなりにピュアな気持ちで答えていた子が大多数だったのではないだろうか?そして幼いうちはまだ全否定されなかったのではないか。だが私はこの問いに対して答えるたびに、母からの辛辣なフィードバックをもらい、考え直しを繰り返し、「ピュア」からは縁遠くなっていった。

真剣に考えた幼少期

「将来の夢」を考える時、身近な大人をリファレンスにする子供は多いと思う。TVや映画の中の人物もありだが、私は両親からスタートした。父は大学で物理を教えていたのだが、大学教授になることが容易ではないことは、小学生にも想像がついたので、口にしなかった。一方の母は、商社で長くOLとして働き、父と40歳で出会って高齢結婚・退職、専業主婦になっていた。なのでまぁ最初は「専業主婦」と答えた。だがその母が専業主婦は全却下した、なぜなら「自立」にならないから。(母の想いは気になるがいったんおいておく)

仕方がないから他を色々考えるのだが、母のフィードバックは厳しく論理的だった。
「商社のOLは?」→「OLは自立にならないわよ」
「アナウンサーは?」→「女性の若さとルックスに依存した仕事は続けられないわよ」
「スチュワーデスは?」→「アナウンサーと一緒よ」
「ピアノの先生は?」→「ピアノでごはん食べていける人なんて世界中で一握りよ」
「インテリアデザイナーは?」→「かなりセンスがよくないと辛いわよ」
「考古学者は?」→「ごはん食べられないわよ」  etc….

「子供の夢を摘む親」という意味では、かなりよろしくなかったと思うが、後の祭り。何年もこんな会話をしているうちに、私はもはや自分の将来の夢がなんなのか、さっぱりわからなくなっていった。(ちなみに、医者とか弁護士とか難しそうな資格系は、最初から候補除外していた。)

3. それ、もはやキャリアプランです

そんな幼少期を経て、中学校の卒業アルバムに「将来の夢」を書く機会があった。そしてそこに私は、「電気メーカーのエンジニア」と書いた。

見た目普通の女子中学生だったので、担任の社会の先生はかなり驚いていた。別に理数系が好きとか得意とかではない。単に消去法で「自立」という最低条件に対するマッチングが高い職業だったのだ。「大手企業の研究職・技術職であれば、女性でも長く安定して働ける可能性が高い。性別やルックスではなく、技術が力になるし、大手であれば産休育休等の制度もマシであろう、従業員母数もそれなりの規模なので、医者や弁護士より実現可能性は高いだろう」そうロジカルに語る私は、先生の目には奇異に映ったに違いない。

そして大人になってきづいた。あれはもう「将来の夢」じゃなく、私が人生で初めて立てた「キャリアプラン」だったのだと。

4. 「自立」を選択する困難さと粘り強さ

電機メーカーのエンジニアになった

その後、私は実際に電機メーカーのエンジニアになった。中学校の先生への年賀状で報告し、再び驚愕された。私は特に優秀だったわけではなく、その道のりは結構険しかった。大学は二浪して何十校も落ちた末に滑り止めに進学したし、就職も悲惨だった(文末参照)。何度も行き詰まり、進路を変えるしかないと悩んだ。変えること自体は構わなかったし、今でもよいと思う。けれど「自立」につながりそうな選択肢は、他もみな簡単なものではなかった。その時に楽になれそうな選択肢は、「自立」を手放す道であり、私にはそれは選択できなかった。だから粘り続けるしかなかったのだ。

ビジョンとプラン

つまり、「自立」は私のキャリアビジョンで、「エンジニア」はキャリアプランだったのだ。プランは変更可能と思ったし今でもそう考えているが、ビジョンはぶれないし変わらない。母は恐らく、ビジョンとして「自立」を掲げる妥当性に確信があり、それを一人娘に叩きこみたかったのだろう。プランは自分の頭で論理的に考え続けなさいと。そして今改めて、「自立」は私だけではなく多くの女性にとって、極めて有効なキャリアビジョンだと感じている。

ビジョンが明確なので流されなかった高校生

私が中学生の頃というのは、バブル期が始まった頃にあたる。友人のお姉さんの女子大生はいつも遊んでいて、華やかで楽しそうだった。何もしなくても誰かがおごってくれるし、授業なんて受けなくても何社も大手内定をもらえると話してくれた。お姉さんはすんなり大手商社に就職し、すぐ社内結婚して退職していた。私は苦難の理系道を歩みながらも、楽しそうなお姉さんの話をきく度に「私もそんな真面目に生きなくてもいいんじゃないの?入れそうな短大に入ればあとはなんとかなるんじゃないの?」と思ったりしていた。だが「自立」というビジョンを前提に論理的に考えると、答えはNo.だった。

5. 「女性の自立」明確なキャリアビジョンとしての価値

こうして私は、幼少期から「自立」を念頭に生きてきた。子供の頃は「女性の自立」の意味がわかっておらず、せいぜい「お金を稼がないといけない」位の理解だった。だが様々な経験を経て50歳を越えた今、「女性が精神的・経済的に自立していること」の価値を深く理解するに至っている。

「女性の自立」の価値、そこに至るための悩み、苦しみ、それぞれの乗り越え方。そういったものを、これから少しずつ書いてみようと思います。
読んでいただいてありがとうございました。

Yuri Masumi

追)就職苦戦の話はこちら↓


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