祈ってるね、の読み替え2と、noteに色々書いてることについて

前回、「祈ってるねの読み替え」という記事を書いたが、
今回はその続編。

さて、「祈ってるね」「神様が最善の道を開いてくれるように祈っています」というようなことを最近ある方から言っていただいた。

なんとなく間を持たせるために言った感を受けた笑
私にはよくわからないけど、一応こうでも言っといて、閉めとくか、みたいな。😅
同じ群れの教職者の方であったが、
その人もどうしていいか分からないんだな。ま、神様が導いてくれるから、とか言っとけばとりあえずそれっぽいかな、みたいな。
そんな波動を受けたような気がした。

自分の想像(勝手な意味づけ)なのか、
それとも本当に自分の意見なのかの見極めは難しい。


今まで私は、人の意見に惑わされ、自分がない、また、プレッシャーに弱く、強めの意見を言ってくる人に迎合してしまうということがあった。しかし、色々人から聞いたり自分で調べたりしたうえで、「自分の意見を持っていく」ということが、訓練してできるようになってきた。しかしながら、
やはり言う人は選ぶものであるから、
やはり意見があっても、ぐっとこらえてしまい
辛くなるということはある。
それは、機能不全家族で育ったゆえであると思うが、これからは、
自分の意見を言って批判された時の
感情の処理の仕方を学んでいきたい。

私はなかなか鋭い視点を持っているという自負があるし笑、それに気づいている人は気づいていて、そういうことを感謝してくれる人もいる。それは回り回って、みんなの益になる事であると思う。
多くの人からは批判的だなどと怒られたり受け入れられないとなり、
非難の対象になることは多々(特にクリスチャンの人から)。

しかしながら、
そういう人がいないと、
腐ったものはいつまでも腐ったものだし、
滅びゆくところにストップをかけることができるかもしれない。
もし私のこの能力が必要ないならば、
神様は、私にこのような賜物を最初から与えないだろう。
そうしたら、これを上手く使っていくことは、責任を任されていることだと思う。

こうして私の拙いブログをフォローしてくださっているひと、
フォローもいいねもしないけど、
何気にかなり見てくれている人、
一部の人に届けば良いと思っている。

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