第1回定期報告[空想都市プロジェクト]

こんにちは。
今回は定期報告と題して、
空想都市平沢の様子を紹介していきたいと思います。

平沢市章

日本の何処かにある架空の都市「平沢市」は伊名県の県庁所在地であり、
50万人が暮らす街です。
日本海側内陸に位置し冬季は雪が多く降り積もります。
また、室町時代末期から御影氏がこの地を治ていましたが、戦国時代には平澤氏が実権を握り、江戸時代に造られた平澤城を中心に城下町が発展していきました。なお、城下町は河岸段丘上に位置しています。

それでは早速、測量結果を報告したいと思います。
今回の測量範囲は平沢城の南、西側に柱山を望む概ね一本木通に沿った地区となっています。一本木通には市電が通っており、周辺には住宅が集積しています。

では測量範囲の一番北西側をご覧ください。
桜梁古柱通城見橋通などの文字が見えますでしょうか。
平沢市を始めとした平澤氏の治めた地域では、城と城下町を一つの建築物と捉えた呼称が用いられており、原則縦:城に垂直な道路を「柱」、横:城に平行な道路を「梁」と呼びます。
時代が下るごとに呼び名は軟化していったため、慣用的に使われる「通」がつけられるようになった道路も存在します。

城下町を横目に南下していくと「永和堰えいわのせき」という停留所が見えてきます。
永和堰停留所の東側に奇妙な形状の水場が見えると思います。
こちらは「永和ながにご円形分水筒」という、水争いが絶え間なく起こり続けた段丘上の田畑や村へ均等に水を分配するために昭和初期に県によって設置された施設です。
最初に軽く触れたように平沢の城下町は河岸段丘上に位置しているため本来は水に乏しい地域です。
分水筒から流れを上流に遡っていくと「平沢疎水」という文字が見つかると思います。戦国時代に平澤家当主であった平澤あさ/ともという人物がこの疎水の原型を造ったとされ、江戸時代に平澤城を造営することになった際にこの疎水を拡張、そののち一本木川から取水するようになり、城下町の発展に大いに寄与しました。

円形分水筒の少し南西には伊名県の護国神社が所在しています。
護国神社より南側の「橋良町」一帯は古くからの町並みが広がっており、街道の旧道も薄っすらと見ることができます。

疎水を挟んで東側の住野や中原という地区はほ場整備がなされた田園地帯が広がっていますが、急速に住宅地化が進んだ住野南地区はスプロール現象が起こっていると考えられます。

また、住野南地区の南側には高度経済成長期に建設された市営の住宅団地である「東橋良住宅」が広がっています。築年数は50年を超えていますが、建て替えの議論が市議会において行われています。

更に南下し、塚原停留所を超えたあたりから急速に山が迫って来るのと同時に緩い坂を上っていきます。
越智口停留所付近は道路幅程度の平場しかなく、通り沿いには人家は存在しません。
段丘を下った先の川沿いには越智口停留所の名前の由来となった越智という集落があります。
慈恵学園入口停留所付近で緩い坂を上りきり、ここから旧平沢市域を抜け、一本木町域へ入ります。

しばらくすると疎水が顔を出し、その脇には管理事務所と疎水の歴史について学べる資料館があり、その先に取水堰があります。
坂上交差点で段丘の下からやってきた道路が合流してくると市電は専用軌道へ入っていきます。

中規模のショッピングセンターを横目に平坦な通りを進んでいくと山手には平沢農業高校が現れ、間もなくすると市電の終点、一本木停留所へ至ります。

これにて今回の測量報告は終わりますが、地図上に点在するこの青いアイコンは何だ?と思った方もいるかも知れませんので、紹介します。

シエラのロゴ


このアイコンは伊名県をはじめとした三国地方で版図を広げる地場コンビニチェーンの「シエラ」といいます。シエラの本業は製パン事業で、「シエラのパン」で県民には広く知られています。

なおシエラの由来ですが、創業者の青山善一郎が山を意味するシエラ(sierra)と空を意味するシエル(ciel)を組み合わせ、ブランドネームとしたことが始まりとなっているようです。
ちなみに社名は青山製パン株式会社です。

地図制作はFUSION mapsが担当しています。
現実と架空の融合という意味が込められています。
実は私の名義:布施とマピオン風地図からonをもらってFUSIONとなっています。

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