トップコンビお披露目公演なのに既に出来上がっちゃっている、月城・海乃新体制の月組の話
2022年1月半ば、宝塚大劇場で、月城かなと・海乃美月新トップコンビお披露目公演、宝塚月組「今夜、ロマンス劇場で」「Full Swing!」を観劇してきました。
長文を書く気力がどうもないので(老化とも言う)、今日も結論をタイトルにもってきてしまいました。ひねりがなくてすみません。
観劇して思うことはたくさんあったのですが、「何か一行にまとめなさい」と言われたらこう答えます。
「月組は出来上がっていました」と。
幕が下りるたびに、茫然としてしまう
2022年の現代に生きる私たちは、情報の飽和状態の中に生きています。スマホを開けばニュースで、Instagramで、Twitterで、心を刺激することにおなかいっぱいなくらいに触れています。
笑いにも涙にも感動にも、慣れてしまっている。「感動」というフェイズに自分を到達させるまでのハードルが非常に高くなっている。ちょっとやそっとのことでは笑えない。泣けない。観劇だっていっぱいしているし。宝塚だっていっぱい見ているし。
翌日二回目の観劇。昨日同じのを見たわけだし、ストーリーも知ってしまったわけだし、感動も笑いも体が覚えている。そうそう笑ったり泣いたりしないのではないか?と赤いお椅子に着席。
自分でも説明ができない、ぬるま湯が体の中からぶわっと沸いてくるような衝動で、二回目もやっぱり大泣きしてしまいました。とにかく涙がぽろぽろぽろぽろ流れて、止まらない。桜嵐記も相当泣きましたが、桜嵐記は激しい衝動が突き上げてきて、嗚咽に近い泣き方でした。それとは違い、今回はとにかく「ぬるま湯」なんです。(誰か分かって)
周りの席からのすすり泣き、忍び笑いの音量も自分史上体感値MAXでしたが、お隣の方が大きめフェイスタオルを顔全体に両手で押し当てて、幕間に震えていたのがとても衝撃的でした。
この感動の種類に心当たりがあって、ゆっくり整理してやっと分かりました。これだ。
「叶わなかったもう一つ」に弱いので、ぐずぐずといつまでも泣いてしまいました。
「芝居の月組」を超えた”怖さ”
翌日以降、観劇の余韻がこんなに持続したのも初めてでした。ゆっくり整理して思わずぞわっとしたのが、月組の怖さです。
冒頭にも書いたのですが、私たちは感動にもお芝居にも感激にも宝塚にもトップお披露目にも、慣れてるんですね。それがこんなに心を持っていかれるというのは…「さすが月組」「芝居の月組」(イエイイエイ!)なんて言ってる場合ではないんです。それどころじゃないんですわ。
ものづくりをした人なら分かると思うのですが、作り手が「感動させたい」とか「笑ってもらいたい」とかの思いと、スキルと、アウトプットのやり方のバランスがかみ合わないと、妙にエモかったり、押しつけがましかったり、ちょっと食傷気味なものが出来上がります。
でも今回の月組公演は、ほんっとうにそういうものがない。全てが絶妙のバランスで、うまいかんじに半透明にラッピングされて「今夜、ロマンス劇場で」という素晴らしいギフトが出来上がっているような…(分かって)
これがすべて、ものすごく冷静な第三者視点を持っていることによる、客観的な緻密な計算によるものだとしたら?と行き当たりました。これ、ものすごいことをやっていますよ……
特にやっぱり、れいこさん(月城かなと)のお芝居の、強弱、間、発声、ちょっとした表情には、天才的なものを感じました。 笑わせようとしているのではなく、キャラクターがおかしい状況にいるから笑える。すんなり客観視できて、雑音がない。だから笑いも涙も、こちらがダイレクトに体感できるのかなと。
れいこさんは秀才型と憑依型、ハイブリッドの要素を持っているなあと驚きました。
そして、さらに、ものすごい濃いキャラクター(れいこさん曰く「健司以外、私以外、みんな変な人」)が揃っているわけですが、それがまたちょうどよいバランスで存在していて、要所要所の笑いも涙も、きれいに成り立っていて。
この仕上がりにもっていくまでの、月組生のセンス、協調性、共感性、客観性、実力、胆力、精神力、さすがだなと思いました。脚本も演出もよいのだとは思う。でもここまで仕上げてくるのは、やはり演者の実力と気持ちのところだと思うんですね。
月組公演、お披露目公演にしてものすごい完成度の高いものをビシィィィィっと出してきたわけですが、今後どこまで仕上げていくのか、見届ける楽しみがまた増えました。期待してたけど、ここまでとは思わなかった。嬉しい。
そろそろ夕飯を作ります。ショーについてはまた今度書きます。(誰への手紙?)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?