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覗かないでおく、ということ

旅先で出会った人と、思いがけず深い話をすることがある。お互いの悩みを打ち明けたり、過去の傷について聞いたり、将来の相談を受けたり。

それはたぶん、お互いのことを知らない同士だからこそ話せるのだと思う。

自分に対する先入観も持たれていないし、過去のことも知らなければ未来の責任を負う必要もない。そんな気軽で薄い関係だからこそ、腹を割って話せる。ふだんは見せない自分の姿を、さらけ出すことができる。

逆に言えば、近い関係であればなんでも洗いざらい話せるかというと、そうでもないと思うのだ。

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私は、知らない人に自分の文章をいくら読まれたって抵抗はない。

だけど逆に、ものすごく近しい人(たとえば家族や、親戚や、15年来の仲の地元の親友たち)には、なるべく読まないでいてもらえると嬉しいな〜と思っている。近しいからこそ、うじうじ悩んでることとか、現在進行形で困ってることとかをあんまり知ってほしくないのだ。

近いからこそ、知らないほうがいいこともある。女友達とは話すけど、親にはセックスの話をしないように。アンネの日記は読むけど、友達の机の上にあった日記は読まないように。

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ちなみに、同棲している恋人と私は、お互いのSNSをフォローしてないし、スマホや引き出しの中身も見ない。それはなんとなくお互いの間に、「知りすぎないのも礼節だ」という暗黙の了解があるからだ。いくら一緒に住んでても、プライバシーの一線は超えない。話したがらないことは聞きださない。ちょっとわからない余白があるくらいで、ちょうどいい。

だから、旅先で出会ったイタリア人には話した過去も、noteで全世界にオープンに吐露した悩みも、恋人は知らなかったりする。

それでいいと思っている。

何も知らずに、ただいっしょにビールを飲んでふにゃふにゃ笑ってくれることのほうが大きな救いだったりすることもあるから。

知らないでいること、ほっといておくことも、ひとつの立派な愛情表現なんじゃないだろうか。

サポートいただけたら、旅に出たときのごはん代にさせていただきます。旅のあいだの栄養状態が、ちょっと良くなります。