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書きたい気持ちの源は、「怒り」かもしれない

「なんで毎日書いてるの?」と聞かれたとき、いつもうまく答えられなくて考え込んでしまう。

先日のnoteに書いた「営業が下手だから書き続ける」というのも本当だし、「noteという場所が好きだから」も真実だ。「一度書くのを辞めたら二度と書かなくなりそう」という不安もあるし、単純に「続けることだけが取り柄だから」も否定できない。

でも、なんだかそれだけだと少し足りない。

最近ぼんやり考えていて、一つ、気づいたことがある。


たぶん私は、ずっと何かに怒っているのだ。


過去に言われて悲しかったこと。言い返せなくて悔しかったこと。居場所を見つけられなくて辛かったこと。がんばったはずなのに報われなかったこと。誰か個人への怒りというよりは、そういう悲しさを生み出した背景に、環境に、社会に、ずっと怒っている気がする。


だけど年齢を重ねれば重ねるほど、「怒り」という感情は他人に届きにくいと知るばかりだ。

だから、「怒り」という感情を、ときに「気づき」とか「理想」に変換して言葉にする。


何に対して憤りを感じているのか、例を一つ挙げよう。

幼い頃から怒りを感じている対象の一つに、「嫌韓」という概念がある。九州北部で生まれ育ったから、韓国は一番近い「異国」だった。船でたったの3時間。港は博多駅からほど近く、飛行機と違ってめんどうな荷物検査もない。国内旅行よりも気軽にいける外国だった。

小学生のころから数えて10回以上、韓国へ旅行した。出会う人はみな優しく、ご飯はびっくりするほど辛く、街で流れる音楽は強烈にかっこよかった。顔もファッションも似てるのに、こんなにすぐ行けるのに、全然違う言葉を話している。まったく違う美学がある。そのギャップがたまらなく面白かった。


ただただ韓国が楽しくて、好きだった。韓国に行って嫌な思いなど、一度もしたことがない。なのに親戚や近所の人からは、いい顔をされなかった。

ハワイに行くのは「良いこと」で、韓国に行くのは「悪いこと」・・・?

子ども心に、不思議だった。そこになんの違いがあるというのだ。行ったこともない国を、なぜ嫌うのだ。子どもの頃からの長い年月を経て、違和感は怒りに変わった。だけど怒りをぶつけたって、親戚のおばちゃんに伝わらないことくらいは、幼い私にもわかった。彼ら・彼女らの価値観が、個人のものではなく環境によってつくられたものだということも感じていた。

ならば戦略を変えよう。私は「好き」を言葉にすることにした。

中学生の頃ののスピーチ大会で、「韓国が好きだ」という話をした。言葉を学んで、その国に友達ができれば、きっとその国のことを好きになれる。世界は一歩、平和に近づく。今思えばイノセントすぎる主張だけれど、大真面目にそういう話をした。

そうやって言葉にしたら、はじめて周りに伝わった。ああ、怒りじゃなくて、希望を言葉にするほうがきっと伝わるんだ。他人から見たら取るに足らない小さな成功体験だけれど、私にはそのとき感じた光がずっとガソリンになっている。


今の私も、根本的には中学生の頃から変わっていない。

単なるプロフィールで人を嫌うな。嫌ってくれるな。国籍で、性別で、趣味嗜好で、経歴で、人を笑うな。全力を出す人を、表現する人を、笑うな。笑ってくれるな。

そんな怒りを、次のさらなる怒りに変えないために。はらわたが煮えくり返るような怒りさえも、希望と行動に変えるために。笑われながらも、書き続けている。



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