見出し画像

ワイドショーの先にマッドマックスな世界が訪れる

ごくごく当たり前の話をします。当たり前のことでも、ちょっと整理してみると新鮮に見えることがあるので、そうなればいいなという話。

見られる意識

人には誰でも、見られることを意識する。商店街を歩いていても、電車に乗っていても、こころのどこかに

見られている

という意識があり、部屋に1人でいてもそれはなくならない。「自意識」というくらいだから、誰にも見られていないときでもどこかしら見られていると想像してしまうというか、自分が自分を見ている、みたいな意識がなくなってしまうことはない。

見られる意識を強める仕組み

以上は79億人にあてはまる話で、人にはたえず「見られている意識」みたいなものが働くわけだが、それをさらに強める仕組みというか装置みたいなものも昔から存在している。たとえば「舞台」というのがそれである。

舞台に上がると、人は普段以上に見られることを意識するし、普段とは異なるふるまい方をするし、そこに快感がある。カラオケボックスのわずか10cmのステージであろうと、人は見られる自分に酔うことができる。

似たような増幅装置に「カメラ」というのもあり、カメラで撮られていると撮られていない時と全く同じ状態ではいられない。

このnoteも同じで、姿を見られているわけではないが、頭の中の考えを人前にさらしているのだから、、自分の書く文章が

だれかに見られている

という意識はなくならないというか、むしろそれがあるから高揚する面もあるわけで、そうでなければこんなに毎日書いていられない。なので、見られているという意識そのものが悪いとは思わない。

見られることのマイナス面

でも、なんでもやりすぎは禁物というけど、見られている意識があまりに強いと、やりすぎに傾いてしまう。簡単に言うと、ウケを狙いすぎる、ということである。

ウケを狙いすぎると、話しを不自然に誇張してしまい、釣った魚が大きくなっていく。多少の誇張はメリハリをつけるためにあっていいけど、その快感にとらわれてバランスが崩れると最後には

ヤラセ

に行きつく。その危うさは、ブログにも動画にもある。ヤラセに傾くのは、見られている自分と、見ている他人の力関係が逆転してしまうということだ。

ノーマルな状態なら、まず自分の生活というものが中心にあり、それがたまたまカメラに写って他人に見られることもある、という風に、自分が「主」で、見られることは「従」である。

ところが、見られることが生活の中心になってしまうと、

見られたときのことを考えてああするこうする

という風に逆算して見られるために生きるようになる。

見られるビジネス

この逆転現象を職業として成立させたのが、ショービジネスだ。

俳優だろうと、コメディアンだろうと、歌い手だろうと、見られるのが仕事であり、見られた時のイメージという「虚像」を提供するために逆算して、実像をねじまげて生きている。

ただし、これが行き過ぎると、

見られるためにはなんでもする

という風潮が生まれ、それが「役者魂」とか「芸人魂」みたいにありがたがられることがあった。そうやって、見られることに押しつぶされて人生がめちゃくちゃになったり、事件に発展した例は数多い。

たとえば、漫才師の横山やすしさんなどが思い出されるけど、実生活がめちゃくちゃでも「それこそ芸人だ!」みたいに周りがもてはやすのでブレーキが利かなくなって、そのまんま行っちゃった感じである。

映画の世界も同じことで、役者さんが壊れそうになるまで追い詰めたり、セクハラまがいのことをやっても、それで

いい画が撮れたよ

となったら許されるというか、それこそ役者魂だ、みたいにもてはやす風潮が昔は強かったと聞く。

このように、虚像をいいものにしたいという気持ちがエスカレートすると、ときには被写体の実人生を壊しても、心を傷つけるようなことをやってもOKみたいなことに傾きやすいのだが、それがプロの仕事の範囲に収まっているうちはまだよかったのである。さて、ここからが今日の本番だ。

見られる庶民

わかりきった話を整理して書いているだけなので、先は読めると思うのだが、スマホのカメラが高性能化し、誰でも動画を撮ってアップできるようになると、「見られるためなら何でもする」庶民が増えてきた。

かつて横山のやっさんや、川口浩の探検隊だけがやっていたような、虚のために実を壊す行為を、普段の生活の中でふつうの人がやるようになった。

「自撮りの悲劇」などといわれるものもこれであり、いい画を撮ろうとがんばりすぎて崖から転落して命を落とすのは、『座頭市』で迫力を出そうと真剣を使ったら人が死んでしまったことと同じで、かつてなら役者バカで済んだ話だが、いまでは世界中の一般人があちこちでやらかしている。

プロの世界なら、プロ意識で止めてくれる人もいるけど、一般人は生半可な分歯止めがきかない。

スシロー問題が後を絶たないのも同じことで、ああいうクソガキは昔からいたけど、カメラで撮ってウケたいという意識が先行するあまり、行動がエスカレートしている。また、YouTubeでやっさんみたいな生き方をさらして稼ぐ人も出てきた。

破壊を創造に変えるには技がいる

ショービジネスの世界なら、カメラの前で「破壊」をやっても、それがVTRに収められて、編集され、音がつけば「創造」の価値が生まれるという逆転現象がある程度成り立つ。とんねるずがテレビ局のカメラを壊しても、それが伝説になって残るみたいなことに近いが、いまではそれが世間のあちこちで起こっている。

「いくら破壊をやっても、再生回数が増えればいいんだ」みたいな考えでつっぱしる人が増えているが、そこに破壊を創造に転換する技はないので破壊だけが残る。この状態は昔から

犯罪

と呼ばれているものとだが、犯罪と創造のプロセスを区別できない人が後を絶たない。

そもそも破壊を創造に変えるのは、まともな社会が前提としてあるからこそやれることで、それは市民の税金でアスファルトが舗装されているからこそ暴走族が暴走できるのと同じことであり、突き詰めれば、タコが自分の足をちょこっと食っているようなことだ。

舗装する人がいなくなって暴走する人ばかりが増えれば、『マッドマックス怒りのデスロード』の世界が来てしまう。

それをみんながやりだしているのが今である。なんの価値も生み出さない破壊がもてはやされているのをみるとうんざりするけど、ヒトとはそういう生き物なのだろう。おろかさに訴えて稼ぐのは、ワイドショーと変わりないし、ワイドショーが日常化した先にマッドマックスがあるのだろう。だまってスイッチを切る以外にやれることはない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?