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パズーの父さんは不幸だったのか

1.占いにおける「運」とは?

説明はいらないだろうけど、宮崎アニメ『天空の城ラピュタ』の主人公パズーの父さんは冒険家で、謎の空中都市ラピュタに接近したはじめての人(=近代西洋人)であり、その姿をカメラに収めることにも成功している。

しかし、社会からは受け入れられず、詐欺師よばわりされて一生を終えた。

占い的に言うと、こういう人は「運の悪い人」ということになる。多くの占い師が言っていることだが、占いにおける運とは、

人とのつながり

なのであり、いいかえれば「社会的資本の充実度」をあらわず変数だ。占いでは

運がいい=社会から称賛される=しあわせ

という図式がそもそもの前提になっている。

しかし、ちょっと考えてみればわかるのだが、

社会から称賛される=しあわせ

というのがつねに成立するとは限らない。たとえば昨日紹介した現代の繊細な若者には、

社会から称賛される=しあわせ

という図式には当てはまらなず、むしろ、人とつながらないことで幸せをかんじる。

2.パズーの父さんは不幸か?

パズーの父さんは引きこもりではないけど、真の冒険家なので、いちばんやりたかったのはラピュタを自分の目で確かめることだったはずで、社会に認めさせるのは2次的なことだったはずだ。

社会に受け入れられない=不幸

とは思っていなかっただろう。

詐欺師扱いされてうれしくはないだろうが、それでもやりたかったことはやりとげており、その意味では幸せな人生だ。

3.真のパイオニアとは

パズーの父さんにかぎらず、パイオニアのやりたいことは2段階に分かれている。

①真相をたどりつくこと

②それを社会に広めること

の2つだ。

そして、ぼくの考える真の探求者とは、なにがなんでも真実の大陸にたどりつくこと(①)を目指している人々であって、それが②社会に受け入れられるかどうかは2の次にすぎないと考えている。

一方で、占いが扱うことのできる運・不運は②の「時の運」だけなのであり、①の個人の達成感を測ったりはできない。

つまりパズーの父さんがラピュタを目にしたときの達成感は占いでは測れない。占いにできるのは、せいぜい

彼が社会に受け入れられず不遇の中で死ぬ

ということにすぎない。

4.天才科学者「X氏」の人生

「真実の大陸」を目指しているのは、冒険家や探検家だけではなくて、研究者も似たような人種だ。

ぼくの知っているある非常に優れた科学者(故人)がいるんだけど、かりにX氏としておこう。天才と言ってもいい人だった。

くわしく書けないけど、戦時中は甘粕大尉にかわいがられ、満州で国家の最高機密にかかわる研究をやっていた。だが戦後「やむをえない事情」により、研究のすべてをGHQに譲り渡した。これは本人から直接伺ったことだ。

子どもの頃から世界的な科学者になることを夢見ていた彼にとって、敵国に研究データをあけわたすのがどれほどの挫折だったのかは知る由もないが、その後、X氏は研究を捨て、田舎に引きこもって農業を始める。

そして戦後60年にわたって「田舎の百姓」(本人談)をつづけ、一生を終えた。この事実だけでも、氏がどれほどの失望と挫折を味わったのかは察せられるのである。

しかし、完全に研究をあきらめたわけではなく、田畑を耕す傍らで独創的な研究成果をいくつもあげている。ただし、パズーの父さんとおなじく世間からは詐欺師扱いされて終わった。

X氏の死後、知人がその研究の一部をまとめてスウェーデン王立科学アカデミーに提出していると聞いた。おそらく、月の引力の測定に関するものだったはずだが、ノーベル賞を受賞したという話はいっこうに聞かない。

いくら独創的な研究でも、学会の認知度やらコネやらがなければ一切相手にされないということなのだろう。X氏にはパズーの父さんとおなじく「運がなかった」ということだ。

まあ、彼の場合は運がなかったというより、自ら捨てたのだ。旧陸軍とのつながりを断って田舎にこもってしまった段階で、「運」を捨てている。

では、X氏が不幸だったのかというとそうとも思えない。ぼくのしっているかぎりでは、彼はパズーの父さんのように、人類が足を踏み入れたことのない領域に踏み込んだ人だった。

そしてホンモノの探究者だったから、パズーの父さんとおなじく①だけで十分に報われた人生だったのではないかと思える。

5.遠くまで行きたければひとりで行け

早く行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め

とよく言われる。一見もっともらしいけど、ならば飛行船の船団を組んだらラピュタに行ける のだろうか。

「重装備のパイオニア」なんて聞いたこともない。コロンブスがアメリカに達するよりはるか昔に、漂流して北米に流れ着いた西洋人などいくらもいたはずで、コロンブスがやったのは「西洋社会に認めさせた(②)」ということだ。

そして、コロンブスと同じく、トランプも、オバマも、イーロン・マスクも、ぼくの目にはたいして遠くへ行っているようには見えない。X氏の達した地点は、はるか地平線のかなたである。

なので上記のことわざは、正しくは

遠くに行きたければひとりで行け。スケールしたければみんなで行け

になるのではないかと思っている。

断言させてもらうけどX氏よりとおくに行った人類など、有史以来5本の指で数えるほどもいない。どう思われようと勝手だが、ぼくの全生涯をかけてそう断言させてもらう。

ぼくはX氏には遠く及ばない凡才だが、それでも自分の目指すラピュタまではいくつもりだ。

そして、ラピュタに到達すれば「到達した」と自分でわかるので、人から確認してもらわなくても結構である。

X氏が田畑をたがやして研究費を得たように、ぼくも自分のやり方でささやかな研究費をまかなっているので、政府にも学会にも遠慮はいらない。一人でたどり着けるいちばん遠いところまで行くし、とことん行くので人を連れていく余裕はない。

たどりつけさえすれば行き倒れで結構だ。「詐欺師と言われてたいへん不幸な生涯を終えました」みたいな感じでいい。

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