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「なにごとにも近道はない」というごく当たり前のこと

この国は、いま核家族化から個人家族化へと向かっていると聞く。

孤独死、引きこもりなど、その負の側面が強調されると「昔のほうがよかった。近所づき合いや親戚づき合いがあってよかった」などという話になりやすい。

はたしてそうなのだろうか。
いま井上靖の『北の海』という小説を読んでいるけど、昔の社会はずいぶんめんどくさいのである。これに描かれているのは大正末期から昭和の初期くらいだろうが、現代人には耐えられないほどめんどくさい場所だ。

たとえば、主人公の少年は、受験に失敗したので静岡県沼津市の下宿を切り上げて、台北に赴任している両親の元にもどらねばならない。とはいっても、「はい帰ります」というわけにはいかない。

まず、静岡に点在している10数件の親戚のあいさつ回りをしなけえればならない。全部を回らなければ「あの子は、あそこの親戚にはあいさつにいったのに、うちには来なかった」とそれから何十年もと嫌味を言われてしまうのである。めんどくさい。

あいさつだけではすまない。伊豆の山奥の実家に行くと、さっそく村人を集めて送別の宴が開かれる。

そのあいだ、ずーっと暇な村人の昔話に付き合わされるわけだが、さらに宴席に招かれた村人と招かれなかった村人とがまたもめる。そういうことでもめていられるくらいに話題に乏しく、ヒマな場所なのである。

その間、沼津では、ライバルの受験生たちが睡眠を削って勉強しているわけで、当然遅れをとる。

とはいえ、親戚付き合いを断ってエライ大学に入るのがほんとうに賢い道なのかどうかはわからない。やがて日本は太平洋戦争を戦い、終戦直後には飢餓に見舞われるわけだけど、そうなってふりかえれば、学歴よりも村人との付き合いを優先しておいたほうがよかったのかもしれない。

いずれにしろトレードオフであり、両方はできないのだ。トレードオフとは

何かを達成するためには何かを犠牲にしなければならない関係のこと

である。

村人の付きあいを大事にしたければ受験勉強はできないし、勉強を優先すればつきあいは悪くなる。

たとえば、ぼくはリアルの付き合いはかなり悪い。親戚は、週末ごとに集まって食事をし、その後お酒を飲む人たちなのだが、ぼくは半年に一回くらいしか顔を出さない。

当然、変人扱いされる。それでうれしいわけはないが、しかし、毎回顔を出して酒を飲めば、勉強できないしこのnoteもかけない。

宴会に出ても、話題は仕事の愚痴くらいである。ほかに情報を仕入れていないのだから仕方がない。

リアルを充実させればネットはおろそかになるし、その逆もしかりだ。これはSNSをやっている人ならだれでもわかる。

どちらがいいというのはでなくて、どっちつかずを避けたければ、なにかを切り捨ててやっていくしかないのである。

どこを切り捨てたとしてもスマートな解決法はない。かならず痛みを伴い、泥臭いことになる。

これだけネットが発達したいまでは、情報通や発信をさかんにやっている人が格好良く見えるが、みな泥臭いトレードオフをやっているはずだ。

1日24時間しかないのは誰でも同じなのだから、どろくさいことをやらないで、あっちでもこっちでもかっこうをつけられるはずはないのである。

以上は、「なにごとにも近道はない」というごく当たり前の話なのだが、「楽に儲かる」とか「〇〇速読法」とか「スピードラーニング」などというのがはやるのは、どこかに近道があると思っている人の幻想を満たす需要がそれだけあるということなのだろう。

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