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大切な“誰か”を守れるように。


誰かを羨ましく思ったのならば、その人を妬むのではなく側にいってなぜ輝いているのかをよく観察しなさい。そして自分と同じようにその人に憧れて集まった人々に価値を与えて信用を生みなさい。小さいことでいい。

バスケットボール部のキャプテンになって責任の重さに押しつぶされそうになっていた時、ただ黙って話を聞いてアドバイスをくれた恩師に言われた言葉。今でも心のポケットに大事に仕舞いこんで人を羨ましく思ってしまった時にひょいと取り出している。

山を登っていたかと思えば谷に引きずり込まれていることも、壁を這い上がったと思うと不意に崖から落とされることだってあった。何度も、「このまま死ねたら楽なのに」と思ったことも少なくはない。けれども私は死ねなかった。周りが死なせてくれなかったし、周りの人に生かされてきた。

人は臆病で寂しがりな生き物だから明るくてキラキラしている人の周りに叢る(むらがる)。それはまるで真っ暗で静かな路地に建てられた1本の街路灯の光に集まる蟲たちのように。そして恰も(あたかも)己が光を発していると言わんばかりに横柄な態度で自慢げに羽を広げる。当の本人は淡々と、しかし着実に光達距離を広げ光度エネルギーを高めているにも関わらず。

時に蟲達は煌々と輝く光を妬み憎しみ闇に葬ろうと、その小さな羽根を縦横無尽に羽ばたかせ周りの蟲たちを巻き込み傷つける。ふと我に返った時、自らの犯した罪の大きさを知り強烈なまでの罪悪感に追い込まれ懺悔に試みるも壊したものはもう戻ってはこない。信頼という名の武器を失った蟲達は、守る術も戦う術も無く、また1からやり直すことを強いられるのだ。

誰だって、幸せになりたいと願っている。

幸せそうな人の傍に行けば、自分も幸せになれると誤解する。

けれどもその仮説は、半分正しくて半分間違っている。他人の放つ光を搾取しているだけでは本当の意味での幸せなんて味わえない。第三者の光が突如として消えてしまった時、また光を探し、搾取し続けるのだろうか。

幸せそうな人の傍に集まること自体を否定しているわけではない。現に2018年に起こったオンラインサロンブームの中、形成された宗教型コミュニティを上手く利用することで私は目標であるクラウドファンディングの成功とクラフトビールのプロデュースを成し得ることができた。

その成功の裏側にはただオンラインサロンに課金して恰も自分が偉人になったかのような感覚に満足してしまう「手段目的化現象」に陥らず、コミュニティ価値を自らの頭で考え見出し生かすことで周囲に恩恵を与えることのできる「目的現実型」の存在になることが大切なわけで。

オンラインサロンという宗教団体に加盟し、おんぶに抱っこでしがみついてるだけで「オンラインサロンは搾取だ」と嘆いている人は、一度コミュニティの活用方法を学校でも会社でも塾でもいいから入って1から学んだ方がいい。利用できない自らの能力値の低さをオンラインサロンという仕組みのせいにするのは「自分は無能です」と公に講じているようなものだ。

もっと言うのであれば、コミュニティに集まる人は何らかの目的があって入ったわけだからその目的を理解し達成するために自分の持っている価値を与えることでそこに信用が生まれる。その信頼の積み重ねがやがて相乗効果を生み倍々に膨れ上がっていずれ莫大な恩となって自分に注がれる。

私はそうやってオンラインサロンを自分の目的のために活用し、そして自分にとってもうそれ以上に必要がなくなったと思ったら脱退するというのを繰り返した。

箕輪編集室、HIU、女性起業家サロン、ローカルファイナンスラボ、西野亮廣エンタメ研究所、アソビカタsalon、ゆうこすアップデートサロン...。経験もないのに憶測で批判する人間が一番嫌いなのでとりあえず気になったものは入って自分の肌で触れて取捨選択した。

たった1ヶ月で辞めてしまったものもあったがそこで生まれた繋がりや経験が今でも生きているのは、短期間の中で「助けて」と叫ぶ声に積極的に耳を傾け手を差延べることができたからだと思う。

明るくてキラキラと輝いている人はとても素敵だと思う。憧れ、慕い、敬うことも大賛成だ。けれども、その人の周りに「ただ存在している」というだけで己をおごってしまってはいけない。どうしたら明るくてキラキラしたあの人のように自らを光り輝かせることができるか考えるのだ。もしまだ自らの力で光ることができないのなら、放たれた光を反射させ他の人に与えるだけでもいい。そして少しずつ周りに人を集め、時には力を借り、光る力を蓄えていけばいい。

いつ現れるかわからない大切な誰かを守るために、コミュニティというコンテンツを最大限に利用して自分を目一杯に光らせて欲しい。



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