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人は水物、流れ流れて形を変えて

<水物>
その時の条件によって変わりやすく、予想しにくい物事

期間はまちまちだけれど、一緒に過ごし、ことあるごとに出会えてよかったなと思うのだけれど、あるときを境にぱたりと会わなくなり、連絡すらとらなくなる。もしくは徐々に遠ざかっていく。

フォローさせていただいている hiyorimi36さんの「一緒にいる時間」を読んでいて、若い頃に考えたことをふっと思い出した。今日はそれについて、書いてみたいと思う。

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遅ればせながらやっと一人暮らしを始めた、大学4年の頃。

新しい家から1ブロック歩けば、小学校からの仲良しが同じく一人暮らしをしていた。彼女とはあまりにもしょっちゅう会いすぎていたせいで、3日会わなければ「ひさしぶり!」というような間柄だった。

手持ちの服を取り替えっこしてみたり、餃子の具には何が合うか相手の家で研究をしてみたり。美味しい物を食べ歩こう!と自転車で二人乗りして出かけては、ラーメンやら餃子やらソフトクリームを食べに行ったし。得意げに"撮影班"の腕章を着けて、始めたばかりのフィルムカメラを持ってその辺をウロウロしたりもした。

一緒に近所のカフェに入り浸っては。大人な常連さん達とお喋りに興じてみたり、ダーツで遊んでもらったり、キャンプに連れて行ってもらったり、ヘリコプターに乗せてもらったり。新しい知り合いも沢山増えた。

大学の友達とは本やCDの貸し借りをしたり、取ったばかりの免許でみんなでドライブに出かけたり、鍋パーティをしたり、飲みに出たりと…実家を出て自由を手に入れたお陰で、学生時代最大の楽しい日々を過ごしていた。

でもそんな楽しい日々の中、ふと思ったのだ。
「どんなに楽しくても、人は水物」と。

今がどれほど楽しくとも、どれだけ仲良くしていようとも。環境が変われば同じではいられない。何年か先の未来を見れば、今と同じものは確実に無くなっている。

幼馴染みは東京への就職が決まっていたし、大学の友人達は地元に帰ってしまう。飲み仲間の常連さんだって、結婚や転職などで生活が変われば店に来なくなることもあるだろう。

過去を振り返れば、明らかだ。

小学校、中学校、高校…それぞれで仲良くしていた友達がいた。でも生きる場所が変わってしまえば、その殆どとは疎遠になってしまった。

そんな風に、今がどれだけ楽しくとも…これはいずれ消えて無くなってしまうもの。そう考えると、人との関係は流れ行く水のようだ…と思えたのだ。


その頃から、かなりの時間が流れた。仕事や趣味、居場所を変える度にどんどんと周囲の人々も移り変わっていった。

いつだって、誰といても楽しい。どの場所にでもちゃんと素敵なものはあるから、流れていくのが嫌なわけじゃない。会う頻度が落ちても、変わらずそこに存在する物もある。

でもその瞬間と同じ景色は、流れ去ってしまえば思い出にしか残らない。掬った手の平からこぼれ落ちた水のように、過去を惜しむことしかできない。

年を取るということは、そういうことで。通り過ぎた日々に後悔は無くとも、そこにはほんの少しの切なさが滲む。

結婚して良かったな、と感じるのは。そうならない、"常に側にいてくれる、流れていってしまわない存在"ができたことかもしれない。

家族と言っても親や子供というのは、成長するにつれ関係性が変わっていくけれど…伴侶というのはお互いが手を離さない限り、変わらずそこにあるものだ。

同じ船に乗って、同じ景色を見ることを選択した人がすぐ側にいる。
それは流れていく日々の中での、小さな安心の形かもしれない。



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