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来てみんさい、広島へ 9 <福山はバラの街>

仕事で福山市へ行ってきた。

同じ広島県内の都市なのだけれど岡山県と隣接しているので、山口県寄りの広島市内からは意外と距離がある。2つの間には「呉市・竹原市・三原市・尾道市」といくつもの市がまたがっているのだ。

その福山市は、バラの街である。駅前の植え込みにも、道路脇の花壇にもバラの花が植えられている。市の花はバラだし、100種類以上のバラが植えられているばら公園というものも存在する。

これは1956年に「太平洋戦争で荒廃した街に潤いを…」と、住民がバラの苗木約1000本を公園に植樹したことがきっかけとなっているそうだ。そこからバラの展覧会が開かれるようになったり、公園が"ばら公園"として整備されたり、バラ祭を市が主催したりと福山市とバラの関係は徐々に深まり…現在では「ばらのまち福山」として積極的に打ち出されるようになった。

おかげで少し遠方に住む自分でも、福山市といえば「ああ、バラの街ね」と認識している訳だ。
 

というわけで、せっかくバラの街に来たのだから仕事の後に少し寄り道をして写真を撮った。さすがに真冬のこの時期、咲いている花は少なかったけれど…

花というのはそれすらも色香にしてしまい、寂しげな様子にすら風情がある。

一面に広がる満開の花というのも美しいものだけれど、朽ちる手前の往時を偲ばせる艶やかさというのもそれはそれで嫌いじゃない。

ばら公園にたどり着く前に陽が落ちてしまったので、これらを撮影したのはその手前にあった緑町公園。季節柄、バラという言葉から想像されるような絢爛な写真にはならなかったけれど…これはこれで悪くなかった。

 
 
ちなみに、この1年程前に訪れた時は秋の半ばだったので。もう少しだけ華やかな光景を楽しむことが出来た。咲き誇る大輪の花となると、同じバラといえど全く印象が違ってくる。

まさに「わたしが主役」といわんばかりの存在感を放っていて、侘しげな佇まいとはまた異なる美しさを主張している。生きている、生ある姿というのはそれだけでエネルギーに満ちていると感じさせられる。

ただ鑑賞するだけならば、こちらの咲き誇る姿の方が圧倒的に目を楽しませてくれるし美しいと感じるだろう。
 

でも…撮る、というのは全く別のことだ。

被写体としてであれば、自分にとってはどちらも等しく美しい。写真を撮る、というのはどこか自分の心の動きを観察するようなところがある。自分が何に心動かされたのか、何に惹かれたのか、何を愛しているのか。それを追ってシャッターを切っている。

万人が美しいと感じるものばかりが、美しい訳ではない。「わたしは」という主張が形になったものが写真だ。

ただ目に映った風景ではない、誰かの小さな主張がそこにある。非言語で、時にわかりやすく、時にわかりにくく…それを上手く拾えた時に、人は共感を覚えるのだろう。

今日のわたしの心の欠片は、どこかで誰かに届いただろうか。

 

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