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写真の持つ力を、信じている

写真でお金は頂いているけれど…正直なところ写真家やフォトグラファーと名乗るだけの高い意識は、無い方だと思う。自分にとって、仕事として撮る写真は「誰かを幸せにする為に、自分が使えるスキル」と考えているからかもしれない。

趣味で撮っている方に関しては、完全に個人的な楽しみで。言葉だけでは足りない表現しきれない、"好き"に対する意見表明みたいなものだ。自分、という人間を表す1つの方法だと認識している。言葉も写真も「今の自分にしっくりきた感覚」を突き詰めて、形にして残す為の手段なのだ。

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そもそも自分にとって写真の本質とは、「思い出をいつでも蘇らせてくれる、宝箱」だ。そういう身近な魔法のツールとして、写真を愛している。

だが最初からそんな風に考えていた訳ではなかった。

学生の頃に、研修でハワイに行ったことがある。生まれて初めての海外旅行で、この興奮と感動はきっと絶対に忘れないと思った。だから友達が5台も6台も写ルンですを持って行く中で、自分が持って行ったのはたったの1台。

写真なんかよりもこの目で見て、この身体で感じることが大切だ。これだけのインパクトのある体験を忘れるわけがない…若き日の自分はそう考えたのだ。

しかしその後、歳を重ねるにつれ知った。写真という手がかりがあれば記憶は簡単に蘇るが、年月に埋もれてしまった過去をトリガーなしに引っ張り出すことは容易ではないということを…。

もちろん、ハワイについてある程度の記憶はある。だけどやっぱり写真を見たからこそ蘇ってくる思い出や感覚、呼び起こされる景色の記憶…というものは大きい。

そしてそれは旅行だけではない。幼い日々、父母や祖父母が皆まだ元気でそこに集っていた頃…そういった子供時代についても、そうなのだ。

写真好きだった祖父が撮ってくれていた、年末年始に集まった時の写真、何気ない日の記録、地元の山に遊びに行った時の写真…そういった写真を見ると、もう戻らない日々がたしかにそこにあったことを感じられて。おぼろげな記憶ではなく、たしかな手触りのある写真という形で残っているからこそ決して無くならない。

だからこそ、写真が好きなのだ。
中でもとりわけ、人を撮ることが。

こんな日々もあった、こんな姿をしていた…時間が経ってから見返した時こそ、写真はその価値を発揮する。あなたはたしかにそこにいて、泣いて笑って時に怒り…そして喜びを覚えながら日々を過ごしていた。

その証を残すことを手伝えるというのは、喜びでしかない。

だから高い理想を持った写真家でなくとも、フォトグラファーでなくともいい。ただ人に寄り添って、それを仕事として生きていくのも悪くはないと思うのだ。


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こちらはninoさん「応援マガジン」からインスパイアされた記事になります。真摯に写真に向き合っている人達の記事を読んでいると、自分は写真に対してどういうスタンスなんだろう…ということを意識させられます。

もちろん写真で有名になったり、しっかりお金を稼げるというのは嬉しいことです。私だってそうなりたいし、大歓迎です。(だって有名になったら、羽生結弦君の将来の家族写真を撮れるかもしれないし!)

ただ自分の根底にあるものを覗き込んでみると、何か社会に訴えたい訳でもなく誰かに勝ちたい訳でもない。

私にとっての写真とは「自分を幸せにする」「誰かを幸せにする」ツール、自分と世界が交わる為の手段でした。写真が好き、というよりは…それを通して行われることが好きなのかもしれません。


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