【普通】

 
 常日頃意識して気をつけていることがある。

それは「自分と人は違う」ということだ。当たり前だけど、意識しないとやはりコロっと忘れてしまうことがある。自分の考え方のものさしに人を当てはめてしまうことがあるし、自分の感覚で人をジャッジしてしまう。人生だってそう。周りが就職、結婚、出産と変わっていくなか、自分は変わっていないんじゃないか…と比べて落ち込んだりすることなんてしょっちゅうだ。これは自分にも相手にもよくないことだよなあ、うん。

 「普通さあ」という言葉を使ったことがないだろうか。「普通はこうする」や「普通こんなことを言わない」など。わたしはぽろっと口から出てしまうことがある。でもそれはわたしにとっての「普通」であって、相手にとっては「普通」じゃない。わたしの世界で通用することは、相手の世界では通用しないのだ。

それでは普通とはなんだろう、と思った。
軽くネットで辞書を引いてみると、このようなことが書かれていた。(精選版 日本国語大辞典の解説より)

ふ‐つう【普通】〘名〙
① (形動) ごくありふれていること。通常であること。また、そのさま。一般。なみ。
※江談抄(1111頃)六「和帝景帝元武紀等有二読消処一事 〈略〉俗人無下読二此音一之者上、雖二普通事一不レ知レ之歟」
※曾我物語(南北朝頃)二「これ、ふつうの儀にあらず、ただ天命の致す所なり」
② (━する) 広く一般に通じること、または通じさせること。また、ある範囲内の物事すべてに共通し、例外のないさま。
※公議所日誌‐三・明治二年(1869)三月「紙幣を普通するの法を立て」
※一年有半(1901)〈中江兆民〉三「科学を普通にすること、是れ人々の皆認めて必要とする所也」
語誌現代中国語に「普通」は存在するが、古典漢籍・漢訳仏典には用例が見いだせない。
(2)明治初期には②の意味で多く用いられ、「する」を伴ったサ変動詞の用法も見られる。「制限選挙」の対義語としての「普通選挙」のように、ある資格を必要とせず、万民が享受できるものを「普通」と呼んだものと思われる。

 自分の身近にごくありふれたものってなんだろう?わたしがイメージしたものは、生活にまつわるものだった。洗濯、ご飯、本、空、ラジオなど…好きなものであったり、身近なものであったり。
 ちょっと怖いなぁ、と思ったのは、②の広く一般に通じること、のあとに「通じさせること」、と書かれていること。ありふれたもの、というような軽さではなく、抑圧。そのなかに当てはめてやるというような、例外を許さないような怖さを感じる。

今度は普通の反対語を調べてみる。

とく‐べつ【特別】
[1] 〘名〙 (形動) 普通一般と異なっていること。また、そのさま。普通でないさま。格別。
※花柳春話(1878‐79)〈織田純一郎訳〉二七「女は一個特別(トクベツ)の男を愛恋す」
※民法(明治二九年)(1896)三六条「法律又は条約中に特別の規定あるものは此限に在らす」 〔謝彬‐新疆遊記〕
[2] 〘副〙
① 物事の状態、性質などの度合が普通よりはなはだしい意を表わす。とりたてて。とりわけ。特に。〔音訓新聞字引(1876)〕
② (下に打消を伴って) それほど。たいして。

 他にも希少、奇抜などの反対語が出てきたが、どの単語も大体共通するのが、「珍しくて例外」ということだった。これらは普通という言葉がなければ生きない言葉で、普通という言葉があるからこそ生きている。
 
 面白いなと思ったのが、自分が時々悩む事柄は、大体この2つの反対語の意味に集約されていて。特に何も変わっていない毎日でそこそこ満足しているけれども、もう少し特別な何かがあってほしい(例外)とか、一般的なひとりなのだけど、そのことばにひとくくりにされたくない、(裏を返せば特別になりたいんだろうなぁ)とか。恥ずかしながら思春期の自意識過剰な悩みを未だに自分は抱えていて、そしてこれからもそうやって生き続けるような気がするのだ。

 もしも普通という言葉がこの世になければ。もしこの世に「普通」という言葉がなければ、もっと生きやすくなる人が増えるのではないだろうか。「普通」に縛られず、自分を見失うことなく、恋愛だって生き方だってそれぞれに自由に生きられるひとが確実に増えるのに。

 ではなぜ「普通」ということばがあるんだろう。普通ということばのところに、「ある資格を必要とせず、万民が享受できる」と書いているが、それでは人間の欲望が飽き足らず、実は悩むために「普通」ということばをつくりだしたのではないか、という気さえしてくる。そして各個人それぞれが「特別だ」ということを意識するために。

 しかし思うのだ。ありふれていて何が悪いのか、と。個性がやたら重視される時代だけど、ありふれているものを大切にするのだって立派な才能だと思う。1杯のコーヒーがあたたかくてほっと息をつける瞬間であったり、9個の値段で買ったたこ焼きが10個入っていて「お!」と思ったり。小さな幸せは大体ありふれたものだ。何も自分が特別であることをわざわざ主張していく必要はないのかもしれない。

 
 最初に「自分と人は違う」を意識している、と書いたけれども、相手の「普通」をまず受け入れる、ということがコミュニケーションのはじまりかもしれない。そして自分の「普通」を差し出すこと。そうやって自分だけの「特別」を作っていく。どちらかというとわたしは人とコミュニケーションをとるのが下手だし苦手だ。けれども相手の普通を「理解できないから」というだけで排除してしまうのはすごくもったいない、と思うようになった。そして違うことを「怖いこと」ではなく、「面白がる」ようにしたら、人と話すことに対して苦手意識がちょっとだけ緩和された。
(それでも疲れることのほうが多いから、無理はしないようにしている。)

皆それぞれに特別であり、普通はきっとしあわせをつくり、いきすぎると抑圧と恐怖になる。

今回自分は「普通」についてこんな解釈をして締めくくろうと思う。



ありがとうございます。文章書きつづけます。