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徒然と、粛々と、ふらふらと

 この時間になると、ふと本が読みたくなる。そういうことはよくあるのだ。別にこの時間にしか本を読まないってわけではないけれど、突然この時間に本を読みだすというのはよくあることだ。(現在深夜0時半)
今日は梅崎春生の「蜆」を読んだ。ある一人の善人が悪人になる話、どこにでもあるような話なのに、どこか現実感がなかった。時代が違うからってのもありそうだが。

それにしてもなぜあのリュックサックには蜆が入っていたのだろう。何故ポケットに蜆が…

 きっと僕らはいつだって善人で、僕らはいつだって悪人だ。性善説も性悪説も、自然説もたぶんどれも正しいわけではなくて、僕らは生まれながらにあえて言うなら多色なんだろう。そうじゃないと個性の意味が分からない。そうでなければ個性なんて作られたペルソナだ。人間機械論を支持する身でもここだけは譲れない。(人間機械論の根底にはロックの自然説的な言論があるように感じるが、僕が思う本質はそこにないような気がする)だから羅生門的なアプローチが可能であり、偏向報道が可能であり、我々の認知は常に虚偽である危険性にさらされている。そして、僕達は常に善悪の線上に立たされ、誰かの言葉、誰かの行動の結果、自身の行動によって如何様に転ぶことができる。その典型例がオウム真理教であり、地下鉄サリン事件なんだろう。全てはアンダーグラウンドでつながっている。またあえて他の例を出すなら関東大震災の流言・蜚語もその例外にない。この事こそまさに善人が悪人に落ちる瞬間をとらえたフォトグラフでもある。まぁとはいえ別にこれらの例を出さずとも日常的にこの線分を意図せず反復しているのが人間なんだろう。

だとするならば、僕らは、我々は、何をすればいいのか。どうすれば虐げる者としての強者にならずに済むのか。それは顧みる事なんだろうと思う。自身の行いを顧みる。理性と論理と道徳を高めていく。そうやって我々は本当の意味のマイノリティとして生き続けることができる。そのために日記を書くんだ。と思い、久しぶりに今日はこれを書いてみました。寝よ。

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