修証一等のこと
これが、道元禅師の 核心だな、と思うようになりました。
私は正法眼蔵など、ほとんど読んだことがなくて、岩波文庫版は持っているものの、必要な時にテキストを確認するのに開くだけです。
弁道話も、居士の頃、総持寺日曜参禅会の講話のテキストで読んだことがあるはずなのですが、全く腑に落ちていないのです。
そして、完全に道元禅師を見誤っていたと思うのです。
その原因は、一般的な「禅」「禅宗」というものに対する思い込みです。
それは、臨済宗の「信仰」に基づいて、世間に流布されている「常識」です。
欓隠老師も、時々、「修証不二」に言及されることがあります。
これは、「悟前」と「悟後」を峻別して、「修」と「証」を別に見た上での見解です。
常識的な見方で、当然そうだ、と思ってしまっていましたが、これは臨済宗の「常識」の上の話です。
「修証一等」とは、真逆の主張なのです。
欓隠老師からすれば、道元禅師の主張は、「悟後」の話で、その前に悟ることが大事なのだ、ということなのでしょう。もっともらしくて、納得させられていましたが、これは、道元禅師の意を殺すものです。
道元禅師は、「修證は一つにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。」と言っているわけで、明らかに、話が違うのです。
臨済宗は、宋代中国禅です。
道元禅師は、宋代中国禅を否定したのです。
あまりにも過激に否定したので、宋代中国禅=臨済宗に馴染んだ徹通義介以後の祖師たちは、道元禅師の主張を骨抜きにしてしまったのではないか、と思います。
「修證は一つにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。」
これは、当たり前の話で、むしろ、「外道」の定義だと言っても良いくらいだと思います。
「證」というものを別に、外に見ているからです。
「今」の自己とは別のもの、「今」とは別の時に、何か「證」というものがある、という「信仰」です。
この修・證を別に見るということが問題なのは、「仏教ではない」ということと「潜在意識を空回り」させてしまう、ということです。
「仏教ではない」というのは、釈尊の修行・成道とは違う、ということです。
釈尊の出家は、「證」を求めたのではありません。
そんな抽象的な話ではなくて、切実な自己の「苦」の解決のために出家したのです。
誰だって、自分の修行の出発点を振り返れば、明らかです。
「悟りを求める」なんてことが、最初の動機になるわけがないのです。
それは後知恵で理屈付けされただけです。
菩提心とか四弘誓願など、修行の方向性を誤らないように策励するためのものかも知れませんが、初発心をすり替えて、殺してしまうものだと思います。
釈尊の場合は、
「照見五蘊皆空。度一切苦厄。」だったのです。
これが仏教の出発点であり、結論です。
したがって、「空」がポイントです。
曹洞宗では、毎年、管長から「告諭」が発布されます。これが、その年の布教の基盤になるのです。今年の告諭は、南澤道人禅師によるものですが、こんな一文があります。
ここに、「縁起の理法をさとられ」とあるのに驚きました。
駒澤大学で学んだ人が、本山・宗務庁を動かしているんだな、と思ったのです。「縁起の理法をさとった」というのは、松本史朗氏の考えでしょう。
釈尊の成道が、「何か」を「さとった」ということならば、その「何か」を「さとる」ことが仏教徒の修行の目的であるはずです。
「諸法皆是因縁生。 因縁生故無自性。無自性故無去来。無去来故無所得。無所得故畢竟空。」でありますから、「縁起」から「空」が結論されます。
それ故に、「照見五蘊皆空」を「縁起の理法をさとられ」と言い換えても良さそうに見えます。
しかし、ここが問題です。
「何か『を』さとる」というのは、構造的に間違った表現だと思うのです。
「問題」の解決は、「答え」の「発見」ではありません。
「問題」の真の解決は、「問題」自体の「消滅」です。
「照見五蘊皆空」がダイレクトに「度一切苦厄」なのです。
「空」の気づきが、「苦」の消滅の気づきを生んだのです。
「空」を達成したとか、体得したとか、という話ではありません。
元から空だったということに気づいただけです。
これは、フェルマーの最終定理のように、厳密に証明可能です。
この世界は、言語によって、頭の中で構築・コーディングされている、ということです。
例えば、この物理世界には、色(いろ)というものは、存在しません。
あるのは、波長の違う電磁波です。波長が違うだけなのです。
その違いを、人間は、頭の中で色(いろ)として認識しているのです。
「柳は緑、花は紅」など人間が幻想に絡め取られていることの戒めにほかなりません。
他の動物・生物は、人間とは、全く違う世界を生きているのです。
改めて考えてみると、「悟り」というものが単独で切り出されて、仏教の目的のように見なされてしまったのは、不思議です。
おそらく、宋代の中国人による創作なのではないか、と思います。
日本人は、中国人の創ったお伽噺を後生大事に守り続けているわけです。
修証一等と同じ構図が、
「衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同じゅうし己る、眞に是れ諸仏の子なり」にもあります。
授戒において、これを繰り返し唱えるのは、修証一等が、仏教の眼目であることを、徹底的に伝えるためなのではないか、と思います。
臨済宗の法式は全く知りませんし、調べようがないのですが、授戒・葬儀において、この文言は用いられていないのではないか、と推測します。
「衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同じゅうし己る、眞に是れ諸仏の子なり」
これは、梵網経の句らしいですが、
「初発心時便成正覚」と同じことだと思います。
つまり、修証一等は、大乗仏教の根幹です。
したがって、「修・證を別に見るのは、仏教ではない」のです。
「潜在意識を空回り」させてしまう、というのは、実際上、とても深刻な問題です。
これは、「刷り込み」とか「洗脳」と同じです。
「何かのことで悟る」というような話を聞くと、何かそんなことがあるのだろうと、その「何か」を探し続けてしまうのです。
「只やれば良い」「成り切れば良い」と言われても、そのようにやれば、「何かのことで悟る」と思ってしまうのです。
それは、無意識下での脳の働きです。
常に「何か」を探してしまっているので、「只やる」「成り切る」ということから外れてしまっているのです。
この「刷り込み」「洗脳」の始末が悪いのは、「之は云うべからざる事に属す、強いて云わぬのではないけれども、云うて解らぬから云わぬのじゃ。自発的に時を待つより外にない。」という調子で、「到達すれば、自ずと分かる」ということになっている所です。
「縁と一つになる」とか「自己を忘ずる」とか、分かったような、訳の分からない言葉を目標にさせられてしまうのです。
更に始末が悪いのは、この1000年の間に、「確かに悟った」「古人吾を欺かず」「やったやった」という人が続出していることです。
そして、そういう人を祖師として、崇めているのです。
単に、キチガイです。
おそらく、左脳の機能不全に陥って、悟ったような「症状」が引き起こされているだけだと思います。
「求心やむ処即ち無事」です。
この「求心」がやむ、というのが、難中の難です。
無意識下の働きだからです。
(因みに、私は「求心やむ時即ち無事」と記憶していました。検索すると「処」の用例しか出て来なくて、おかしいなと思いました。臨済録の言葉らしいです。欓隠老師を検索したら、ほぼ全て「時」でした。『南天棒禅話』から既に「時」なので、南天棒が、そう言っていたのでしょう。)
それを調べていたら、円覚寺管長のブログ記事がありました。
水の中で水を求める
https://www.engakuji.or.jp/blog/34132/
余語老師の言葉が引用されています。
「気づいても、気がつかなくても、変わらない事実に気づく。」と。
余語老師は、やはり、デカいな、と思います。
昔、ダンテス・ダイジという人がいたのですが、彼はこんなことを言っています。
常に、既に、そうなのです。
「私」は、頭の中に構築された記号です。
頭の中に構築された記号の世界を私は生きているのです。
そこに実体は無く、空です。
悟り無き空の地平に只管打坐が屹立しているのです。
これを良寛さんはおそるべき歌で表現しています。
そもそも人生に目的はありません。
あるはずがありません。
無意味な世界に放置されることに耐えられなくて、何か意味を見つけ出し、何か目的を創り出して、ラットの回し車のようにカラカラ、勝手に走り回っているのです。
人生に目的は無く、仏道にも目的はありません。
この仏道において、修証一等は明らかです。
2024年2月25日
幽雪 九拝
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