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末期の救い

これは、「無明庵・第7回公開禅問答」の中で、ついでのように掲載していた2004年の手紙である。M居士宛の手紙だった。
この少し後には「アンチ菩提心論」を書いた。これはK居士に宛てたメールだった。
この年、熱心な居士たちとの対話の中で、自分の中にあったものを初めて形にして表現した。感謝の他はない。
                           幽雪 拝

謹啓
先日は、久し振りにお声が聞けてうれしく存じました。
いつもながら、現場の生の声に接するようで、有り難いことです。
さて、今回は、何か書いておかなければいけないような気がしています。
悟りということ。末期の救いということ。
「EOの悟りと釈尊の悟りと同か異か。」
私は、この問いに非常に戸惑いを覚えます。何かしら非常にしっくりしないものを感じる。
そんなことどうでもいいじゃないか、というのが本音なのですが、ことが「悟り」という高尚そうな話ということになると、いい加減にもできないような気がしてしまいます。
問題は、その問いがどれほど切実なものであるか、ということです。
単に知的興味というだけならば、それこそどうでも良いことでしょう。
「悟り」という言葉は、禅において非常にナイーブなものになっています。あまりにも際どく微妙な言葉だから、曹洞宗では禁句にしてしまっているくらいで す。そうなのです。曹洞宗では、見性だの悟りだのと言うことはご法度なのです。その根拠は、道元禅師の書かれたものの中に見性を否定しているような文言が ある、ということらしいです。臨済宗では、見性というものをバーゲンにかけることで、その真を失ってしまいました。今や臨済宗は、奇怪な体育系的集団に なっているようです。少なくとも公案禅などではなく、丹田禅というべきものになっています。
結局、「悟り」とは何なのか、ということが分からなくなってしまっているのです。そりゃそうです。悟った人がいないんだから、分かるはずがありません。悟ったようなことを言う人は沢山いるようですが・・・。
ただ、私の考えでは、「悟りとは何か」とか、「誰と誰の悟りは同か異か」とか、「誰の悟りは浅いか深いか」とか、「誰それは悟っているのか、いないのか」 というような問いは意味が無いと思っています。おそらく、釈尊にそのような問いをすれば、彼は「無記」で応えるはずだと思います。そのような問いは、その 人に解放をもたらさないからです。
野次馬根性からすれば、非常に面白い問題であり、知的好奇心をかきたてるには格好の物だと思いますが、それは、人の苦しみを暴き出し、破壊するものではなく、ただの知的玩弄物に過ぎません。
かつて、EOが「後、十秒で死ぬとしたらどうか」と問うた時、私は、初めてこの「悟り」の呪縛から離れました。正にそれまで「悟り」が呪縛だったのです。 それは何かしらの「結果」を求める心が元にあったからなのでしょう。それを「求心」とも呼びますが、そういうものがボコッと落ちたのでした。
驚いたことには、そこが、それこそが、求めていたものだったのです。そこに「只管」の当体があったからです。
あまりにも逆説的ですが、「悟り」の無意味なる地点に至って、「悟り」が無用になったのです。そうしてみると、「悟り」というものとか、少林窟でやかまし く言う「一隻眼」だの「大悟」だのということが、非常につまらなく感じられます。真剣そうな振りをしていても、ただの遊び事だからです。
そこで、末期の救い、という話です。
先ず、ダンテス・ダイジの言葉を拾ってみます。

君そのものが
欲望と苦悩なのだ
君という渇望には
決して絶対確実な安心がありえない
君そのものが苦であることを
全身全霊でわかった時
君は1ミリも動くことができなくなる
人間性の救済への一切の努力が無意味であることが知的にではなく、
全面的に理解されれば、
そこに真実の只管打坐が、果てしなく開けている。

『アメジスト・タブレット・プロローグ』

ここで「君」と呼ばれているのは、通常の意識での私たちです。頭の中の電気信号です。
そこには、絶対に救いはない、と断言されています。
しかし、一方では、「有情非情同時成道。山川草木悉皆成仏」なのです。既に。
だとすれば、救いようはないし、救うようもない、ということになります。
何もできない。
「救う」などという言葉は、傲慢不遜ですらある。大きな勘違いに過ぎない。
自ら末期の人となり、心の果てた者となって、共に只在ることしかない。
そのことが、共鳴現象を引き起こし、人をして寂滅に導くことを、僅かに期待しながら・・・。
十年来、このことを語ることがなかった。語る相手がいなかったからです。
今、あなたに何か語らなければ、と書き始めてはみたものの、支離滅裂、言葉足らず、曖昧模糊なることお許し下さい。今はこれ以上には書けない。

では、ご法体ご自愛下さい。
                               合掌
平成十六年五月一日

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