資格、とは。

この間、少し自分の読書のモチベーションにつなげようと思って、とある資格(商工会議所系統のもの)を受験してみたのだが、資格が取れてしまって逆に気持ち悪くなった。
というのも、自分としてはちゃんと理解していないままだったのに、申し込んだからと惰性で受けたら資格が取れてしまったのだ。こんなんでいいのかなという気になった。
今後、資格があることで、却って、そっち方向に興味があるんだ、とか、詳しいんだ、みたいに思われてしまうとしたら、それはそれで面倒というか、いや、全然詳しくないです、とか言ってしまいそうである。人事考課のシートにも取得資格として書かないほうがいいかなと思いつつある。その分野を専門にしたいとか、そういう方向に行きたいというわけでもなく、ちょっとだけ興味を持ったので勉強してみたというだけであるし、今となってはその興味も結局持ち続けられなくてだいぶ薄れてきてしまっている。

じゃあ一体何がしたかったのか、ということになるが、要は私はその資格を取りたいと思ってはいなかったのだ。資格になっている事柄だと、その分野における考え方のスタンダードみたいなものが体系的にまとまっていて、参考書も充実しているので、概要を知るのに手っ取り早くて便利だなと思って、まぁすこし知っておこうかな、くらいの動機でまずは本を買った。ただ私は興味を失うのも早く、自分の性格上、期限を切らないとやらなくなることも承知しているので、本を読み切るための保険として締切を設けるために受験を申し込んだ。もし読み切る前に受験することになったら、そのときはそこまでの理解度をためせばいいやというくらいのつもりだった。結局本も読み切っていなかったし、自分の中での納得感というかちゃんと理解したなという感覚(腹落ち)に全然達していなかったので、今回は受からないだろうなと思って受けたら、なんと合格証が届いてしまったのだ。なぜこんな私を合格させたんだというのが正直なところだが、今更送り返すわけにもいかないし、さて、これをどうしたものか、というところである。

で、いま書いていて思ったのだが、実は高校や大学も似たようなものかもしれない。

高校を卒業するときに強烈に思ったのが、高校の課程で習うことを完全に理解したわけでもないのに、後ろが詰まっているから追い出されるんだな、ということだった。単位円も波も遺伝も徳川幕府もローマ帝国も漢文も、その意味や学問上の文脈やそれが何たるかよくわからないままに、試験問題を解いて点が取れるようになったというだけで課程を修めたと認められてしまって終わり。それがとても気持ち悪かった。
しかも点が取れると言っても、別に100%が求められるわけじゃない。こんなんで修めたと言えるのかと疑問だった。こんなんだから「勉強して何になるのか」みたいな疑問がそこいらで湧くのではないかと。

大学も、いままさに前期の成績がつけられている期間であるけれども、先生方はおおいに悩んでいる。たとえば必修科目で、設定した基準に達していない学生が大量に出たときに、どうするか。不可を出すことは簡単だけれども、そのあといろいろと問題が出てくる。基準が適正だったのかということもあるし、あちこちに波及するので何かしら救う手立てを考えないといけなかったりする。そんなような単位の積み重ねで、教員や大学は大多数の進級や卒業に差し障りのないように結構な配慮をしている。
一方で、教育の質の保証がどうたら、とか、大学は卒業を厳しくしろ、などと言われる。それもわかる。基準に達していないと思われるのに単位を認めるのは、学問上も教育上もよろしくないと考えるだろう。だが実際問題として、大量の留年生が出ることを想定したカリキュラムにはなっていないし、不可の学生の再履修を受け入れる場合の時間割やキャパなどの問題もあるし、そもそも、学生や保証人とはそういう厳しさの約束をしているわけではなく、修業年限で卒業できることを前提に、学生を受け入れ、送り出している。一つの科目の試験は、全体に大きく波及する。だから大量の不可は出したくても出せない。原理原則だけでは世界は回らないのだ。そんな理想と現実の間で、みんな悩んでいる。

そうなると、資格も単位も卒業も、いったい何なんだろうな、と思う。一体何を証明し保証するものなんだろう。
なんというか、最終的には、この人はそこに時間とお金をかけました、ということくらいしか示せないような気がするのだが、それでいいということなのか。う〜ん。。

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