ぼやきのつぶやき、混迷の極み

秦の始皇帝はすごい。
何がすごいかというと、あの広大な国で、規格を統一させたというところだ。
むかしは世界史で習っても、ふーん、というくらいだったが、社会に出て組織のままならなさを目の当たりにすると、そのすごさを実感する。すごい。ほんとうにすごい。やっぱすごい。

翻って、センター試験が変わることにからむ一連の報道やあれこれを見ると、もう溜息しか出ない。
大学入試改革はいよいよ混迷を極めてきており、文科省によるこの全国統一はもはや不可能なんではないかと、個人的には思っている。

しかし、文科省も、かわいそうなのだ。
専門家がみんなで一生懸命理想を考えた結果であるはずの中教審の答申をうけて、それじゃあと頑張って制度を考えてみても、あっちこっちから横やりが入る。
それでも理想を掲げて制度を組み立て固めようとするのだが、大学からはぼろぼろと離反が相次ぐ。
時間が過ぎていく。それでも決めなければならない。えいやで進む。各方面からブーイングの嵐。
責任をとれる人もとりたい人もいないし、誰もリーダーシップを発揮できない。異動で人がコロコロかわり、大臣も変わる。
うまくやれそうな気もうまくいきそうな気もしない。修正をしていくうちに、当初掲げていた理想はなんだったっけ、となる。
こんなんでうまくいくのかよ、と思いながら、それでもやるしかない。やらせるしかない。
受験生は振り回され、誰得状態になる。しまいには誰がこんなのやろうと言い出したんだ、とか、やらないほうがましだった、とか言われたりする。
担当者は自分の務めを果たしているだけなんだろうに。政府の方針に従っているだけなんだろうに。

あぁ、こんな状況、自分だったら絶対に担当者になりたくない。だってしょうがないじゃん、やれっていうんだからさぁ!こっちはできることやってんだよ!どうしろって言うんだよ!と、絶対ヤケになる。想像しただけで具合が悪くなる。ほんとうにご愁傷さまだ。

とはいえこちらも他人事ではいられないのだ。
試験を使うのか、使わないのか、使うならどのようにどの程度使うのか、などなど、大学の裁量で決めなければならない。
しかし、大学が自由に自己決定する、というのは実は建前であって、実態は大学同士の空気の読み合いになっている。受験生が重なっていそうな他大学の動向をみんなお互いにうかがっている。もうチキンレースだ。こんなのは果たして真に裁量があるっていうんだろうか。
どこかの大学のように、「うちはこうだから。」って、突っぱねて言える強さがあったら。
私は私。他人は他人。うちはうち。よそはよそ。そう言ってみたいものだ。
でも大学内では、これに限らずなんでもそうなのだが、「うちはこう」とするその内容が全然まとまらないんである。
基本的に評論家集団だし、みんな好き勝手なことをいう。誰も決めたがらないし決められない。代替案を示せるわけでもなければ決定に唯々諾々と従うこともない。一部の頑張る人が辛い思いをする。
大学も官僚組織も、誰かが何かを決断してその責任を引き受ける、ということに向いた組織ではないのだ、結局のところ。

あーあ。最近こんなのばっかりだ。
どうにかならないものか。

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