研究者は大学に所属するがゆえに研究時間をなくすというジレンマ

大学院にいた頃、私はひじょうに辛かった。苦しかった。きつかった。
そう言うと、きっと研究が大変だったのだろうと思うかもしれないが、そうではない。
辛かったのは、注力すべきことが複数あって力を分散させなければならなかったこと、これに尽きる。

私はお金がなかったので、奨学金とバイトで学費を稼いで、申請の上、学費を分割納入させてもらっていた。
研究をしたくて大学院に入ったのに、学費や生活費のためにはお金を稼がなくてはいけない。
そうすると、ぱっと簡単にお金を稼ぐには時間を切り売りしてアルバイトをするしかなく、自分の持ち時間が減る。
バイトも塾講師は準備が必要、飲食店はバイトをする時点で週3以上のシフトを求められる。私は一時期両方の掛け持ちをしていた。
そのうえで、大学ではとうぜんに常に全力勝負しなければならない。演習の授業があれば、自分の割当たった箇所以外にもその日進むであろう部分については調べ尽くして臨むのが院生としての最低限の礼儀で、少しでも手を抜けばすぐにバレて恥をかく。
院生ともなれば、学部生の面倒も見なければならない。学部生の資料探しを手伝ったり、一緒に演習の担当を受け持ったり、己の持てる知識の範囲でアドバイスをしたり、進路相談を受けたり。
自分のことはその後でようやく始められ、自分のやりたい研究を進めるには、先行研究を読んだり、対象とするテクストを探したり、資料をこつこつ読み解きながら論文の構想を練ったり、時にはよその研究室の先生に資料の相談にいったり、教えを乞うたりしなければならない。
さらに、大学院に入ってすぐに、将来のこと、ドクターに進むか、就職するか、留学するか、など、悩まなければならないし、私はお金のこともあって就職することにしたが、そうなると今度は就職活動である。

研究するために大学院に行っても、研究に存分に打ち込めるわけではない。それぞれの場所で、立場で、求められることがちゃんとできない感覚にずっと苛まれる。焦り、苛立ち、嘆き、こうして全てが中途半端なまま、日々が過ぎていく。
全力投球したいものに全力投球できないことは、けっこうしんどいものだ。大学院を終えて就職したとき、一つに注力できる環境になって、とてもホッとしたことを覚えている。稼ぐことと注力することが一致して、それだけやればいいというのは、この上なく幸福なことだ。

私は就職によってそのような環境から逃れられたのであるが、研究を続けると、これが一生続く。
いま、先生たちを見ていると、研究に割ける時間は、一割かそこらではないかと思う。それも、日中でなく、無理くりプライベートや睡眠時間を削った上での、一割である。
大学の研究者は、自分の研究を続けるために、外部資金を取ってきて研究費を確保し、週に複数コマ、時には土日にだって授業を受け持ち、学生の面倒を見て、論文や実習の指導をし、大学に来ない学生がいれば親身になって相談を受け、単位認定や進級判定や卒業判定やらをして、外部からの頼み事の研究を請け負い、地域社会の要請にも応え、いろんな委員になったり講演をしたり、政府や実業界からの要望にも応えなければならない。大学内部の運営もある。カリキュラムや入試や大学で決めなければならないことはたくさんあり、認証評価や中期計画なんてものもある。資格課程を持っていれば関係省庁の手続きもある。オープンキャンパスやら高校訪問やら複数回の入試対応、式典なんかのイベントもある。所属長にでもなった日には、他の教員の服務管理や所属の予算管理なども入ってきて決裁文書地獄である。学術界のために、学会の運営だって、学術誌の発行だって、一つの会社の事業部なみのことをやらねばならない。これらは、言っておくが、全て、自分の研究外のことである。
そんなにやっても、好きなことしてお金をもらえているんだからいいでしょ、幸せでしょ、もっともっとあれもこれもやるべきでしょ、というのが世間の態度だ。
私の辛かった大学院時代の比ではない。ほとんど研究に集中できない。それで論文が少ないと非難される。大学にいないほうがまだ研究できるのではないかと思う。事実、恩師は、留学するドクターの先輩に、留学期間が人生で最も研究できて集中して論文をかける期間だから頑張れと言って送り出していた。

研究をしたかったはずなのに、どんどん研究ができなくなる。
この上なく辛いジレンマだと、ほんとうに同情する。

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