分解者

この一年で、立て続けに知った人を亡くした。

知った人、といっても、名前と顔がわかる程度の近さの人だ。仕事上多少話したことがある、というくらいのもので、私はその人たちの人生も哲学も全く知らなかったし、相手の方からしてみれば私はワンオブゼムであって、知り合いでもなんでもなかっただろうと思う。

そんな細い関係であっても、顔を知っている人が亡くなるというのはやはり重たいことで、亡くなったと聞かされたときはしばしぼうっと考えてしまって、仕事にならなかった。
ついこの間まで元気だったのに、というのが世の中では簡単に起こる。

お手持ちの就業規則や学則などで、退職や退学の条項を見てもらいたいのだが、ある集団内においてそこから外れる場合の条文のなかには、必ず、死亡した場合、という一文が入っている。
これはシステム的には正しい。リストから除外するのはどんなときか、というcase文において、人の死は想定できなければいけないことだ。起こりうることだから。頭では分かる。
でも。顔を見知った人の死亡時の手続きは、したくないものだよ。できれば一生、適用されずに済んでほしいcase文だ。
しかし、事件、事故、病気、災害、ときには自死によって、ひっそりと名簿から除籍される人が、毎年どこかにいる。必ず、いる。それだけ、各種の事務手続きをする人も、いる。

そういう場合の手続きに関わると、なんだか、キノコとかミミズとか、生態系の分解者になった気分がしてくる。その人がいた証を、少しずつ、処理して、すべてのリストから外していって、分解して、ついには、無くして、もとの何もなかった状態に戻してしまう。
次の年になれば、ほんとうになにごともなかったかのように、世界は平然と廻る。たんたんと、すべては手続きされていく。

なにかを残してあげたいのに、なにも残らない。
時を止めてあげられない。
また同時に、時を進めてもあげられない。
形跡が消えてしまう前に、せめてなにかを語りたいけれど、知らなすぎて語れることは何もなくて、どんどん、分解と忘却だけが進んでいってしまう。

分解者には、なりたくない。なりたくないなぁ。なんて言って処理を遅めてみたり、無駄な抵抗をしてみたり。
それでもあっという間に処理は終わってしまう。あっけなく分解し尽くしてしまうのだ。

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