ガジュマルの話

東京に住んでいた頃の話だ。
ある夏の日、私は知人の結婚祝いに、ガジュマルの小さな植木鉢を買った。
人参のようなまるまるとした根、小さく丸い葉、樹高は20センチくらいの、藍色の陶器の鉢に入ったガジュマルは、幸福の木だというので、お祝いにちょうどいいと思った。
花屋には2つ売っていて、私は吟味して1つを選び、贈り物にしたいのでラッピングをお願いします、と頼んだ。二人に幸あれと願いながら。

その後しばらくして同じ花屋の前を通ると、ガジュマルの鉢が1つ売っていた。前に選ぶときに、枝ぶりや根の張り方、葉のつき方、全体のシルエットなどをよくよく見比べたので、ひと目であのときの片割れだとわかった。
気づいてしまったら、それからは、売れてほしいような、売れてほしくないような、とにかく気になって仕方なく、何度も花屋の前を往復しては売れたかどうかを確認するようになってしまった。
しかしこのままではただの不審者だし、売れてしまったらしまったできっとがっかりするような気がして、私は思い切ってその片割れのガジュマルを買うことにした。
自宅用でお願いします、と言いながら、今度は私に幸あれと願った。

私はその頃、緑に飢えていた。そして大変に疲れていて、全く幸せでなかった。コンクリートに囲まれて、空も山も見えない、窓を開ければ隣の建物の壁しか見えない、昼でも薄暗い当時の私の家に、ガジュマルはやってきた。
さすがに電気の光だけではかわいそうに思われて、休日は狭いベランダに出して水やりをした。エアコンの排気にまみれながらでも光を求めたのは、むしろ私の方だったかもしれない。

ある日、いつものようにベランダで水やりをしようとしたら、ガジュマルをうっかり落としてしまった。陶器の鉢は真っ二つに割れたが、土はそれほど崩れなかった。なんとその鉢は、上げ底とでも言うのか、二重構造になっていて、鉢の中には元々土が少なかったのだ。成長した根がみちみちと土を抱え込み、行き場をなくしてはちきれそうになっていた。
私はとてもかわいそうなことをしたと思った。鉢が割れたのは、ガジュマルの必死の訴えだったのかもしれない。私はすぐに一回り大きい鉢と土を用意して植え替えてあげた。
同時に、自分ももしかしたら今が辛いんじゃないか、平気なふりして無理してるんじゃないかと疑うようになり、自分のことも少し大事にしようと思った。

その年の冬、私は仕事を辞め、休養しながら生き方を模索することにした。ガジュマルもいるし、明るく温暖で穏やかなところに移住しようかと考えていた。移住の本を買ってみたり、地域おこし協力隊の求人を眺めてみたりした。けれど、どこも、一人で適応して生きていくのが難しそうに思われて(なにせ私は人見知りだ)、結局、ガジュマルには悪いが慣れている東北の内陸に行くことにした。

戻ってきた東北は、空気が違った。なんでもない日の湿度が全然違って、カラッとしていた。皮膚感覚の記憶が、生きるべきはここだと言っているようだった。空が広かった。山が見えた。私はようやく息をすることができた。
連れてきたガジュマルにとっては寒冷で乾燥しすぎているだろうけれど、せめて陽当たりだけはいいところに住んで暖かくしてあげようと思った。

たくさん陽にあて、水をやり、できるだけ寒くないようにした。おかげでガジュマルはすくすくと育ち、鉢を替えるごとに枝は伸び葉は大きくなった。10センチほどの大きなたくさんの葉と、太い枝、枝からニョロニョロと伸びる気根。高麗人参みたいな、根元だけぷっくりとした愛らしさはすでにもう見る影もない。枝が何本に別れようと、どれだけ伸びようと、そのままにしていたので樹形はスマートとは言えないのだが、不格好でも構わなかった。大きくなってくれるのが嬉しかった。
もはやガジュマルは私の分身のようだった。窮屈な鉢はかわいそうだったし、幸せと自由の象徴のようだった枝を私には剪定できなかった。好きなように枝を伸ばさせてあげたかったし、好きなように葉をつけさせてあげたかった。

ガジュマルの世話をするうちに私も自分を取り戻し、その後なんとか次の職を見つけ、いまではわりと自由にやっている。
ガジュマルはいまでは私の背丈ほどになっている。
よく根腐れもせず枯れもせず、大きくなってくれたものだ。もっとのびのびさせてあげたいところだが、ここの冬は凍えるから地植えはできない。だからこの先も私はガジュマルを連れて転居し生きていく。

ガジュマルが幸福の木というのは、幸福を願う心が、自分にも向くからなのかもしれない。あの日、ガジュマルを買ってよかったなと思う。

風呂場でシャワーをかけてやりながら、まだガジュマルの小さかったあの夏の日を思った週末だった。

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