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「全国の介護界のトップランナーが宝島に来てくれた話」と「宝島の人口構成が変わって来ていた話」

2010年12月。全国から宝島でのモデル事業を応援してくれている方たちが来島された。全国小規模連絡会の面々だった。ポジションにいらっしゃるだけでなく、実戦も積み重ねて来られた方たちだった。そんな方たちに、離島の現場に、生の声を届けてもらうことは、僕たちにとってだけでなく、島民の皆さんにも貴重な時間だったと思う。

話す内容と誰が話すか

この時の話を聞いて、島民の考えは少し変わったのかもしれない。目の前のことを、客観的に評価してもらえることは、物事の進捗を測る上で大切だったと思う。身近な人間の実践より、第一線で実践を積み重ね、ポジションを取ってこられた方の言葉の方が影響のあることがある。

特に、日々の「納得」を探しながら活動していたスタッフにとっては、これまでやってきた方向性が間違っていないという、ホッとした感情に近かったかもしれない。その様子を感じて、僕自身も安堵としていた。「大丈夫、間違ってない。」講演を聴いた後に、スタッフの表情に手応えのようなものを感じた。

ちなみに、講演を頂いた方の中のお一人、北海道の安部信一さんは、冬の宝島も楽しんで帰られた。

人口構成が変化

宝島の組織は、自治会の他に、大きく青年団、婦人会、老人会がある。母数が少ない分、教職員等の移動で人口構成が大きく変わる。ただ、この年の青年団は、年初の構成員の2倍くらいの人数になっていた。移住者が増えたことが大きな理由だ。高齢化率も40%くらいだったと思うが、どんどん島が若返っていった印象だ。というのも、当時の宝島の人口は100人くらい。1人増えれば、人口が1%が増える。冗談みたいな話だけど。

そんな青年団の忘年会。今後、僕たちの事業を展開していくための場所の話題が出た。集落内の空き物件を物色していたからだ。同じ頃に移住して来た方たちも、自分たちの事業を立てるのに必死だった。そのために物件を探していた。当時の物件の状況は、ボロボロになっていたり、島外にいても所有者が貸してくれなかったり、一筋縄ではいかない物件ばかりだった。そんな使える物件数が少ない中、見えない壁のようなものが見え隠れしながらも、お互いに気にかけあっていた。

また老人会も過渡期にあったと思う。当時の活動の中で聞いたことを下記のように記録している。

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