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祖母たちとの約束を思い出していた話

僕は、この島で暮らすようになって、よく祖父母のことを思い出すようになった気がする。正直、幼い頃の思い出の印象が強くて、青春時代には足が遠のいていたことを思い出す。多少、思い出は美化されるのだろうけど、ポジィティブな印象しかない。島から島へのアクセスは大変で、なかなか会いにいけなかったけど、できるだけ、僕たち夫婦の爺ちゃん、婆ちゃんに会いに行った。息子が生まれてからは、なおさら。

2012年の夏、甑島の婆ちゃんは、入院中だった。透析が必要になってからも、自分で色んな努力して、我慢もいっぱいして、離島甑島で暮らしてた。骨折してしまって、鹿児島の病院にいた。

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いつも一緒だった祖母が入院中のため、「爺ちゃんも寂しいだろう」と、祖父のいる甑島へも行ってきた。祖父は、変わらずパワフルな人だ。今も元気に、甑島の天然記念人物として活躍している。近くの人に心配もされながら。

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そして、妻の実家の近くに住む義祖母には、甑島よりは気軽に会いに行けた。その義祖母との思い出、はっきりと覚えていることがある。結婚することが決まり、挨拶に伺った時だ。挨拶を終えて、顔を見ての開口一番、

「未来ちゃんを泣かしたら、アンタを殺すからね!」

真剣な顔で言われた。もし、義祖母がお元気だったら、僕は何回か殺されている。でも、夫婦の最期の時は笑顔でいられるようにしたい。そうでもしないと、あの迫力のある様子だと、あっちで、もう一回殺されそうだ。

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最期のお別れが出来ていないから

僕たちが宝島で暮らす中で、夫婦とも祖母を亡くしている。自分の祖母を見送った時も、義理の祖母を見送った時も、僕は宝島にいた。涙を堪えて歯を食いしばって。「人に求められて行うことは、本物だよ。」いつお見舞いに行っても、病室を離れるとき、祖母は言った。「キバレよ。がんばんなさいよ。」僕が宝島で大変だった時に乗り越えられたのは、そんないくつかの言葉が、心のずっと奥の方に残っていたからかもしれない。

この仕事に携わるようになって、人が最期を迎える場面に関わることが多くなった。そんな経験の中で、思い浮かぶのは自分の家族のことだった。僕は、宝島で看取りことへの執着が強かったのかもしれない。だからなのかもしれないが、どこかでこれまで看送ってきた方たちとの別れに納得できていない自分を感じている。それは僕のエゴなのかもとも考える。でも、宝島で過ごした日々の中で、病院のベットの上で、あの方たちの生き様、死に様を通して、なおさらそのことへの想いが強くなったのも事実だ。もう少し、力を抜いて向き合えたら、僕の決断の形は変わっていたのかもしれない。

約束は守れたんだろうか。

「人に求められて行うことは、本物だよ。」
その夏も、美江子さんは小宝島に帰られた。そして、「鹿児島の施設を探している」という話を耳にした。利用者も家族も揺れる。それは、お元気な時も、体調が悪くなった時も。僕はその揺れにのまれながら、さざ波を越えながら、そばにいた。

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