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一緒に「島での介護を考える」ために、僕たちがしたこと

充実した研修を終えて、宝島に戻った。不在の期間の関係性を作り直すためにも、頼まれごとを積極的に取りに行っていた時期だ。「たった数日で?」と思われそうだが、これは大げさではなく、当時の僕は、すごく慎重に関係性を作ろうとしていた。利用者はもちろん、ご家族や診療所、そして地域の方。次年度、介護保険制度(類似)事業として動かしていくために、より関係性を強くしていく必要があった。24時間365日、事業者だけでは、支えられない。そして、後に語り継がれる事件を起こす…

「ヨネが火事を起こしたぞ。」

診療所の看護師さんに頼まれて、診療所の周りを草木を伐採、そして野焼きをしていたときのことだ。急な風にあおられて、小火を起こしてしまう。滅多に事件や火事もない宝島。消火活動としては、数年ぶりに消防団の要請。消防団の皆さんのおかげで、大事には至らなかったが、僕が宝島を離れるまでいじり続けられる事件となった。思い出話になる程度で、本当に良かった。

この時のことで、普段接点の取りずらかった方たちとの関係性も深まった。それは、真剣に叱られながらだった。今では僕は、その人たちのことを敬意を込めて「少年親父」と呼ぶ。宝島の壮年層だ。そんな皆さんのことは、またの機会に書きたい。

次のステップに進むための作戦

話を戻す。次年度の以降の話は島内でも話題になっていた。「どんなサービスが提供されるのか?」「お金がかかるのか?」「米倉はいつ嫁さんを連れてくるのか?」いくつかは回答できないこともあったが、僕たちの作戦は、「まず、見てもらう」だった。興味を持っている十島村の村民を対象に、「よかあんべ」への視察旅行を行った。数十人の大所帯での旅行だった。嫁いで離れて暮らす姉妹や高齢で夫婦での旅行は難しいと思われる方たち、孫との思い出作り、色んな目的で参加された。そのお孫さんも、もう中学生だ。

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見てもらうことが大事

当時の「よかあんべ」は、まだ築100年を超える古民家だった。きれいな施設を思い描いていた参加者もいる中、色々な意味で衝撃だったと思う。その衝撃は、介護のイメージの転換にもなったのかもしれない。

昼食には岩城さんを中心に作られる、「岩城カレー」が振る舞われた。当然、大人数で座れる食堂なんてないから、利用者もスタッフもみんな庭で食べる。岩城さんの得意なハーモニカをBGMに。この日の影の立役者は岩城さんだった。カレーが苦手という、直志さん(民宿の主人、立ち上げ当初一番お世話になった自治会長)もカレーを食べられていた。

少なくとも、そこで過ごす高齢者とスタッフの様子は、「してもらう→してあげる」の関係性ではなかった。来客をもてなすために、みんなで一緒に作戦を立てる。そこには、利用者の存在感がある。

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「よか晩だったねぇ」

宿泊は、霧島の温泉宿へ。普段はフェリーでの移動の際に顔を合わせる十島村の村民同士が、ゆっくり交流する場になった。7島の有人島がある十島村。それぞれの島の島民にとっては、行政で分けられた島ではなく、それぞれの自分の島「我が島」へのこだわりがある。だから、「ウチの島では〇〇。」主語が、我が島になる。「たから(宝島)は、いいねぇ。」当時、宝島で取り組まれた僕たちの事業への期待とやっかみの両方を感じた。

そしてその研修旅行で語り継がれる思い出は、打ち合わせ1分(「俺について来い。」by黒岩)の白鳥ダンスだ。これまで宝島で数々の余興をこなしてきたが、「あのダンスをもう一回見たいわぁ」と根強いファンがいる。

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呑めや歌えや、姉妹も踊る。数年後も「よか晩だったねぇ。」口々に思い出を語られた。本当によか晩だった。

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2011年3月11日

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