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ついに事業所の落成式を迎えた頃、僕が少年親父たちへ抱いていた想い

2012年6月。ついに、新しい事業所への引っ越し完了。事業所のしつらえを整えるに当たっては、地域の方やご利用者にも参加してもらった。ここは、みんなの場所。当事者意識のことを考えていたことも大きい。

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一通りの準備を終えて、いよいよという時、約1年お世話になった住民センターの2階での最後の食事は、黒岩さんが焼く「お好み焼き」だった。黒岩さんの焼くお好み焼きは、ある意味、株式会社浪漫の「ソウルフード」だ。だから、こだわりも強い。

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いざ、落成式へ

そして、落成式。シマさんがテープカットに立ってくれた。この時も変わらず、宝島の有名人、たからの看板娘だ。落成式後の飲み会で、意外な人からもお祝いの言葉をいただいた。「見てくれていたんだな。」と嬉しくなった。

前日から、皆さんに見守られながら、挨拶の練習を一生懸命にしていたことを思い出す。明日は、当時の取り上げられたニュースを投稿したい。

尊敬する少年親父の存在

やっと落成式を終えた。引越しの時の写真をみて、僕は気になった写真があった。引っ越しには、僕の尊敬する少年親父4人組も協力してくれた。この写真もきれいには写っていないけど、4人が一緒に写っている写真は、僕のPCにほとんどない。貴重な写真だ。

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この頃は皆さん、まだ青年団に属していた。24時間体制になってからは、当然夜勤もあって、早朝の荷役作業や昼過ぎの荷役作業がしんどい事もあった。だけど、この人たちの話を聞きたくて、欠かさずに作業に出ていた。反対に、朝荷役に寝坊してしまったら、気持ち的におっかなくて、顔を合わせづらい。そんな「ちょっと怖い」けど、「頼りになる」人たちだ。

昭和臭の香る、レジェンド話

青年団の忘年会では、昔の宝島の話を聞いた。誰々のお母さんが美人だった。あの、ばあさんの畑のスイカを食べたのは、俺じゃなくて、〇〇だ。でも、俺が怒られた。母ちゃんを喜ばせようと紫陽花を摘んで帰ったら「人様の家の花を持ってきたらいかん!」ってビンタされて、母ちゃんと誤りに行かされた。」どれも、人情味あふれる、昭和臭⁈の漂う話だった。そして、その話に出てくる人たちの今と繋がる。その母ちゃんが利用者さんだったりする。僕は、この島でこの仕事をしていて、この感覚を味わえることが嬉しかった。

僕を育てた軽トラ談義

少年親父たちは、ほとんどの確率で「軽トラ」を愛用している。畜産業を営む平浩さん(平田浩一さんだけど、功一さんがもう一人いるから、島内ではそう呼ばてれる。)とは、集落であんまり会うことはない。朝から晩まで、海か山にいるからだ。鶏に餌をやりに行ったりするとき、僕の軽バンとすれ違いざまに始まる、軽トラ談議。車の運転席に座ったまま、他では話せない事業所のことを相談したり、集落の裏情報を得たりしていた。時には厳しい助言をくれる。でも、愛あってのことと実感してる。「期待せん奴には、言わん。」そんな言葉が、支えてくれている事もある。

事業所の近くを毎日通る、良郎さんはたま〜に、ゆっく〜りした口調で話しかけてくれた。魚が獲れたら、「港に(魚を)取りに来い。」ゆっくりした口調で、電話をくれる。良郎さんのモノマネは、誰がしても結構な確率で正解すると思う。

共通しているのは、それぞれの持ち場で頑張っているということ。島を支えているということ。なぜか、情報を持っているということ。そして、どこかで事業所のことを気にかけてくれていたということ。高齢者と若者の間にいて、いろんなことあるはずなのに、全くブレない。ブレなすぎる、頑なに。僕は、そんな少年親父になりたいと、少し思ってる。

忘れられない言葉

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「いつか俺たちも、ここで世話になるかもな。」

冗談のように言われて、嬉しかったことを覚えている。きっと、この人たちは変わらず、この島で時間を重ね生きていく。

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