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認知症介護実践者研修を受講しながら、亡くなった祖父母と父のことを思い出していた話

宝島に移住して8ヶ月がすぎ、色々ありながらも、順調に事業は進んでいた。その頃は、順調なのかすら分からないくらい、がむしゃらだった。僕は、次年度からの介護サービス類似事業から、介護サービス事業にのせるために、「認知症介護実践者研修」を受講していた。実務経験が条件を満たしていないため、聴講生としての参加させてもらった経緯がある。研修完了の要件には、自施設実習と他施設実習があった。

「パーソンセンタードケア」って?

他施設実習の最後に、「パーソンセンタードケアを意識し、自分自身が認知症の人にとって、どのような存在、環境でどのような影響を及ぼしているか常に振り返り、明日からのケアに取り組んで下さい。」とのコメントを頂いた。(パーソン・センタード・ケアは,認知症をもつ人を一人の“人”として尊重し,その人の視点や立場に立って理解し,ケアを行おうとする認知症ケアの考え方。)まだ、僕の中では、言葉としての知識だけだった。

知識に体験を寄せる

そして、10日間の自施設実習。この期間が僕が初めて認知症の方に向き合う時間だったと思う。実習の中で、度々小学生のときに亡くなった祖父と、認知症だっただろう祖母を思い出した。

幼い頃の思い出は、婆ちゃんと風呂に入った時の垂れ下がったおっぱいと、ポケットから出てくる黒飴。あんまり喋らなかった爺ちゃんにビビっていたことと、戦争の時の後遺症の爺ちゃんの歩き方。爺ちゃんのお尻には戦争のときに打たれた鉄砲玉の跡があった(んだったかな?)。大きかった爺ちゃんが亡くなった時、婆ちゃんは僕に言った。「あんなに大きな人だったのに、あんなに小さくなってね。」柩に入っていた時だったか、お骨になった時だったかははっきりしない。

祖母は、認知症だったのだろう。

うっすらと記憶の中に、鍋が焦げた匂いを思い出す。まだ社会的にもそんなに取り上げられていなかったのかもしれないけど、当時の僕にはそういう知識もなく、「何で僕と、父や弟の名前を間違うんだろう?」という感覚だった。僕は、毎回くり返す、ばあちゃんとのやり取りが億劫になり、母が作った食事を届けるのも面倒臭がっていた記憶がある。そんなある日、婆ちゃんはトイレで倒れて、最期は病院だった。そして、年忌の時に灯籠を担いで、お墓までの国道沿いを歩くように言われた。思春期だった僕は、すごく恥ずかしくて、嫌だった記憶がある。あからさまに態度に出していた。

今になって思うのは、

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