28歳で退職しカンボジアの大学院へ留学。

スースダイ、浅野です。

遡ること2010年。

28歳の時、僕はサラリーマンに終止符をうち、プノンペン市内の最初の私立大学 Norton大学 大学院(開発学部)へ入学しました。

(大学院の入学の仕方、費用等についてはリクエストあれば別途に書ければと思います)

僕自身の話になりますが、日本で働いてた際の業種は、雑誌の編集&ライターをした後、IT業界のシステム構築や運用をする会社で働いていました。また大学時代は経営情報学部でした。

つまり、開発学部系の学問を学んだわけでもなく、加えて言えば縫製関連、アパレル関連の業界ともかけ離れた場所にいました。

そんな僕がカンボジアの大学院でなぜ開発学部に入ったのか。

それは2007年くらいから"社会起業家"という言葉をよく耳にするようになっており、その耳障りがとても秀逸な響きに思え、カッコイイ存在に思えていました。

それは2006年にグラミン銀行のモハマド・ユヌス氏がノーベル平和賞を受賞したたことでソーシャル・ビジネスという言葉に脚光があたったり、日本ではマザーハウスの山口絵理子さんがその代名詞的な存在として脚光を浴びていたことも重なったのも一つの要因かもしれません。

時を同じくして、僕は26歳の時、脳動静脈奇形という先天的な欠陥が発覚し、その後脳内出血をおこしてしまいました。でも幸いなことに今生きています。

そして病気を経験し、そこで死ななかった自分に対し、自分の生かされた意味みたいなものをきっと探したかったのかなと思います。

幸いなことに、半身不随にもならず、言葉も話せるし、このまま会社に復帰しよう、とも思っていたのですが、折角生きながらえた命、何かに情熱を燃やしたい。将来、自分の子供にストーリーだけではなく背中で語れるナニか、それを纏いたいと強く思ったことを覚えています。

だって、会社員として生きていこうと思ったら、僕より有能な人は沢山いて、その人たちに勝つ術を僕は見出せませんでした。

会社の歯車として生活をするある種の楽さやぬるま湯加減に慣れつつあり、むしろ心地よくなりつつあったタイミングでの脳内出血だったのでした。

だからこそ、今の"心地よさ"から抜け出し、幸運ながらも生き延びたこの命を使って、自分の生きた軌跡を少しでも残せれたらな、と思い、僕は最後の長期休暇を使い、カンボジアのプノンペンに来て、市内の大学院を巡りました。外国人も入学できる大学院を探し、訪ね周りました。

ただどこの大学院も開発学部への入学の必要要項には"NGO/NPOないしそれに付随する職種で○年以上の経験が必要"と記載がありました。

これは困った!僕は一切その関連の職歴がありません!

が、それに勝ったもの、それは”情熱”でした。

と同時に人生で初めての未知なる挑戦に、そして自分から行動を起こそうとしている自分にワクワクしていました。

僕は学生課の担当者、学部の担当者へ会いに行き、僕がどんなにカンボジアが好きで、そしてカンボジアの発展がカンボジア人らしさを残し尊重したまま発展してほしい!その為に僕は経験はないけれど、入学して勉強しなければならないから、この入学要項は見逃してくれないか、と必死に話したことを覚えています。

つづく

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