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小説 「酸化」#1

 夜も街頭や電子看板やお店の窓から漏れる光で照らされた明るい市街地から急に山奥の鬱蒼とした木陰のジメジメとした背の丈ほどもある草むらに入っていくような気分で自宅の玄関に入り込む。学校からの帰路の時間はいつも足がうまく動かず、表情が軋んでいくのを感じる。感じるが、感じるだけで名案な打開策を思いつかないまま家に着く。かといって登校時に体重が軽くなり、自転車の漕ぐスピードが速くなったりしない。学校も家もあまり変わらない。強いて言えば、登下校に通る公共の道路が1番気持ちが楽だった。


 家に入ると、少しひんやりとする。玄関には外の光は入ってこない。正面の廊下の壁には姿見がかけられている。廊下の横は窓があってホコリ臭いレースのカーテンが閉められている。やんわりと鏡を照らす夕日は、鏡の不気味さを助長していてまるで鏡が自分に近づいているんじゃないかといつも思う。いつも思うが、実際には自分で歩いて近づいている。僕は廊下の突き当たりを曲がり、廊下のコーナーに積まれた新聞紙を上手くかわしてリビングへと続く引き戸を開く。いつもより気持ち重たいような、いつもと同じ重さなようなどっちとも分からない。


 慎重にリビングに足を踏み入れ、手早くテレビの電源がついているかと、暖房が効いているかを判断する。テレビは消灯していて、部屋も寒い。誰もいない。少し気持ちが落ち着く。誰もいなくてもリビングは常に灯りが付いている。何故かはわからないが暗黙のルールになっている。落ち着いた心でリビングを改めて確認する。庭側の壁は1面窓になっていて、庭への行き来がスムーズに出来るように設計されている。その大きな窓の前には僕用の学習机が1つと、埃と油汚れが混じり本来の黒色から若干白っぽくなっているピアノが1つ置いてあって塞がれている。机の上には取り込まれた洗濯物が重なって積んである。いつもであれば、げんなりしながらもその洗濯物をどかして机の前のイスに腰掛けるところであるが、今日は誰もいない。せっかく誰もいないので、部屋の隅々までみてみようと思った。

 庭、庭といっても物干し竿を2本並べるのが精一杯の小さな庭だが、、、そこに続く大きな窓の横には実は、窓とは別に扉も備え付けられている。では、窓の前が塞がってしまっている今、庭へのアクセスをその扉から行なっているのかといえばそうではない。その扉の前にも、ダンボールやら着ていない服の塊やゴルフ用品、各々のどう捨ててよいのか分からないゴミが放り込まれて塞がっている。

 床は去年穴が空いたため、ホームセンターで買ってきた木の板を無造作に置いて塞がれており、その上にコタツが置いてある。そのコタツは分厚い本棚で囲われている。その本棚には、両親がハマっている新興宗教の偉い方が書いた本がびっしりと詰まっている。全く同じタイトルの同じ巻数が4つあるものもあるし、乱雑にしまわれている。いずれも読んだ形跡は見当たらない。その本棚の前には所狭しと服やゴミやお皿が入ったケースや靴の空箱なんかが置かれている。本棚とコタツの位置関係を確認すると多少コタツが斜めにズレており気になる。コタツの1辺と本棚を平行になるようにずらし直してみるが、今度はその場所ではコタツのバランスが悪く手で押す度にガタガタと揺れるようになってしまう。本棚と平行な位置で、コタツもバランスの良い位置を探す。ようやくしっくりする位置を見つけ、改めて確認するとコタツの1辺が完全に本棚と密着しており、コタツの中にゴミやら服やらがかなり入り込んでいる。というより、下に入り込んだゴミがクッションとなりコタツが安定しているようにも感じる。今の試行錯誤の時間を無駄に思いながら元の位置へとコタツを戻し、本棚に対して直角平行が出ていない現在の状況を甘んじて受け入れるほか無かった。


 視線をコタツから前方に戻すと、学習机とピアノの隙間からわずかに入ってくる夕方の明かりが空気中の細かな埃と照明に向かって飛ぶ虫を照らしている。壁は以前ヘビースモーカーであった父によるタバコのヤニとリビング内に併設されているキッチンで調理の際に漂う油の飛沫が重なって黄色く変色している。誰かが素手で触ったのだろうか。黄色の壁の中に白い手の跡がいくつか付いている。壁には外れかけの画鋲に器用にかけられたカレンダーがあった。

 カレンダーの余白に、「今年こそは恩返しの1年を」と書かれている。筆跡的に母親の字であるだろうと予測がつく。僕はその文を見るたびに気持ちが悪くなる。私は恩返しをする、だからあなたも産んでここまで育てた私に恩を返しなさい、といったような意味が込められているような気がするからだ。今の僕にそんな精神的余裕などない。