誰かの幸せを願える人でありたいと思う

ゼミの仲間の越境先に越境してみた。ゼミの仲間が普段頑張っていることも知りたいなと思い、何げなくゼミ生が頑張っていた70yen projectの報告会に参加してきた。「ただ目の前の人を笑顔にしたい」という想いのもとフィリピンのスラム地区などで定期的に炊き出しを行っている団体で、フィリピンでの一食分がだいたい日本円で70円ということで、70yen projectという名前らしい。(物価が上がったら120yen projectになるのか、というどうでもいい質問をしてしまったことを反省している)将来的には、大衆食堂を造ることで継続的に雇用を創出しながら、支援を行うことを目指している。素晴らしい活動だと思った。

今回はゼミ生がそのプロジェクトの4期生として実際に現地に行ってきて感じたことなどを報告する会だった。ゼミ生は、(フィリピンの)彼・彼女らを自分たちの物差しで推し量って、不幸せだと決めつけて支援することは本当の国際「協力」と言えるのだろうか?貧困=不幸せではない。何が本当に大事なのか、何を必要としているのかを考える必要がある、という報告をしていた。国際協力においても相手のナラティブを理解して、対話を通じて、歩み寄る(違いを乗り越える)必要があると思う。いいプレゼンだったと思う。

画像1

そんな中、とある発表者の発言が胸に引っかかった。

生活水準を下げることで、幸福度が上がる。

念の為言っておくと、その発表者はゼミ生ではない。この言葉の背景は、「ゴミ山を案内してくれた少女に履いていた長靴をプレゼントしたところ、とても喜んでくれた。日本では、中古の長靴をプレゼントされても喜ぶことはない。生活水準が低いと、身近なところで幸せを感じることができるのだ。だから、自分も床で寝始めて8ヶ月経って、ベッドで寝ることの幸せを実感できる。だから、生活水準を下げると、幸福度が上がる」ということだった。要は、もっと周りに溢れている身近な幸せに気づこうよということだと思う。

さらにこう続いた。

幸せは伝播する

人の幸せは周りの人に伝わって、周りの人も幸せになる、と。例えば、美味しそうにご飯を食べている人を見ると幸せになる。結婚式は見ているこっちも幸せになる。

つまり、彼は、「生活水準を下げる」ことで幸せになり、「その幸せを伝播」させていきたいということだった。言葉として理解できなくはないが、どうしても引っかかった。その場では言葉に出来なかったが、ずっとモヤモヤとして違和感を感じていた。

その違和感の正体は、

①あなたの「その」幸せを望んでいる人がいるのだろうか
②幸せが伝播するためには、幸せを願う人の存在が必要

なんだろうと思った。

だれが、あなたが生活水準を下げて幸せを得ることを望んでいるのだろうか。それはあなたが本当に望む幸せなのだろうか。ミニマリストに近い考えなのかもしれないと一瞬思ったが、ミニマリストは「生活の質を下げて」いるのではなく、物を持たないことで得る豊かさを感じて「生活の質を上げて」いる。決して生活の質を下げている訳では無い。この「生活水準を下げる」という表現には、そもそも「物を持つことの方が豊かだ」という価値観が孕んでいる。自分が豊かになる、幸せになるための方法は、元々あった「何か(物)」を得る必要がある。床で寝ているのであれば、幸せになるためにベッドで寝る必要があるのである。もし、生活水準を下げる幸せというものが彼の中でミニマリスト的な幸せなのだとしたら、生活水準を下げるという表現は不適切だろう。

幸せは伝播する、という話については間違いないと思う。ゼミの仲間が美味しそうに食べている姿を見るとこちらも幸せになる。大好きなプリンをあげても(経済的には損をしているが、)損した気分にはならない。なぜなら、仲間がプリンを食べて幸せになるというのを願っているからだ。つまり、幸せが伝播するためには誰かがその幸せを願っていなければならない。幸せになってほしいと思っている人が幸せになっているから自分自身もその幸せを分かち合えるのだと思う。食べ物もそうだし、結婚式もそうだろう。全く幸せを願っていない嫌いな奴が結婚したとしても幸せな気持ちにはならない。むしろ不愉快に思うかもしれない。

つまり、幸せが伝播するためには、その幸せを願う人の存在が必要だ。誰があなたのその遠回りの幸せを望むのだろうか。あなたが「わざわざ」下げた生活水準を「わざわざ」引き上げた差分で幸せになることを誰が望んでいるのだろうか。自分一人が幸せになるためなら、「生活水準を下げて、幸せになる」ことはアリだろう。しかし、幸せが伝播するのは難しいように思う。

と、ここまで違和感の正体を書いてきたけれど、一番大きな違和感は「それ、ゴミ山の少女に面と向かって報告できるか」という疑問だと思う。「君が生活水準の低い暮らしをしていて、長靴をあげたときの幸せそうな姿を見て、僕も生活水準を下げることで幸せになろうと思ったんだ!」って。きっと、口が裂けても言えないだろう。誰が、望んで生活水準を下げているんだ。ゴミ山という不衛生な環境で育ち、生ゴミの中から食べ物を探すような生活に。むしろそこで感じるべきは、その不条理さであろう。元々、国際協力をかじっていた身として、そこが最も引っかかったポイントなのだと思う。学生が国際協力活動として東南アジア諸国などに行くと、だいたいの人が「そこに住む人はとても幸せそうで、幸せについて考えさせられた。日本は経済的には豊かだけれど、本当に幸せなのだろうか」と口を揃えて言う。僕自身もその一人だった。だからといって、ひとつの側面だけを見てその人たちを手放しで幸せだということはできないし、貧困だから不幸だと決めつけることも出来ない。その現状に面と向かって向き合ったなら、ゴミ山の少女の幸せを願っているなら、せめて、その子になにを伝えられるのか考えるべきではないか。それが、あの場のあの言葉の違和感の正体だったんだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?