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春を待ちわびて思うこと

不安定で、曖昧で、不確実な時代のはじまりに

誰がこんな春の始まりを予測しただろうか。

去年の終わりに中国のたった一人から始まったことが急速に拡まり、自分たちの足元にまで来ている。新年度を迎え、いつもなら心機一転晴れ晴れとした気持ちで迎える春もどこか曇り空のようである。所属するNPOでは半年おきに行っている交流プログラムがなくなったり、軒並み近所のお店も休業したり、営業時間を短縮せざるを得ない状況になっている。新しい人との出会いに溢れた春も、外に出られない生活が続いている。先日始まった大学もオンライン授業になり、ゼミ活動もzoomを使ってのオンラインゼミになった。昨日まで当たり前だったことが突如当たり前ではなくなり、常に変容していくことが求められる不安定で、曖昧で、不確実な時代を日々実感している。

改めてこの状況下で感じていることは、わたしたちは曖昧さに耐えられない、ということだ。この先がどうなるか分からない不安はもちろんある。予想できない事態や正解がないことに対しての怖さは常に付き纏う。この時代を乗り切るために今必要なことはなんだろうか。

今求められているネガティブ・ケイパビリティと学習観

この時代に求められている能力のひとつは詩人のジョン・キースが発見したネガティブ・ケイパビリティという力だと思う。ネガティブ・ケイパビリティとは、

「事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑のなかにいられる能力」あるいは「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」

のことを指す。

ネガティヴ・ケイパビリティは本能とは逆の営為なわけです。人間の脳はわからないものや不確実なものに耐え難く、あらゆるものに仮の答えを見つけたいという欲望をもっています。<中略>だからこそ、複雑なものをそのまま受け入れられずに、単純化やマニュアル化をしてしまう。答えがないものや、マニュアル化できないものは最初から排除しようとする。そうすると、理解がごく小さな次元にとどまり、より高い次元まで発展しない。その「理解」が仮のものであった場合、悲劇はさらに深刻になります。(https://wired.jp/2020/03/19/negative-capability/ より)

曖昧さに耐えられない原因のひとつにわたしたちの学習観の問題があるだろう。ネガティブ・ケイパビリティを培うのは「記憶もなく、理解もなく、欲望もない」状態だという。「記憶(暗記)し、理解し、競争において欲望をかきたてる」というこれまでの教育において培ってきたものと反対のものである。教育において、問題設定と問題解決にあまりに慣れすぎたわたしたちの脳は分かりたがり、正解を求めてしまう。分からない、正解がないという事態は耐え難く、苦しい。

佐伯胖氏は、学べない人の特徴をこう述べている。

「学べない人間」のいだいている学習観をまとめてみると、第一に、学習を「勉強作業」―せっせと本を読み書き写す作業―としてとらえる作業的学習観と、第二に、「考える」ことをすべて「うまくやる工夫」とみなす方法的(工学主義的)学習観とにわかれる(『「学び」の構造』より)

ただの作業としてこなす(=正解をただ受け入れる)、うまくやる(=正解を出そうとする)という学習観を変えていく必要がある。

「待ってくれる場」

「曖昧さに耐える」は、「待つ」とも言い換えられる。「待つ」ことはすなわち「待たれている」自分にも自覚的になる、ということだ。自分にも他者に対しても「待つ」ことに寛容になることは問題解決思考という罠から抜け出すヒントになるかも知れない。

今季のゼミでは、『「自分だけの答えが見つかる」 13歳からのアート思考』という本で読書会を行っている。アート作品を鑑賞しながら、アート思考について学んでいけるようになっている。アート思考は自分の「興味のタネ」を見つけ、「探求の根」を伸ばしていくというプロセスである。その結果、「表現の花」、つまりなにかしらのアウトプットであるというのだ。

すぐに正解を求めたり、分からないと諦めてしまうのではなく、分からない曖昧さに耐え、「興味のタネ」から「探求の根」を伸ばそうとする中で、少しずつアウトプットが生まれる。その営みを効率化という観点から排除するのではなく、いつかきっと「表現の花」が咲くことを信じて「待つ」ことが重要であり、「待ってくれる」場が必要なのだと思う。いまはきっとその時なのだと思う。

また春が来ることを待ちわびて。

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