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約6年在籍した株式会社ビズリーチを退職しました

2018年6月末で、約6年在籍した株式会社ビズリーチを退職しました。カバー写真は昨日の送別会でいただいたたくさんの寄せ書き。

最終出社日は5/29で、6月3週目まで海外一人旅に。noteを書き始めたのは、海外一人旅は大量に時間があって何か書きたくなったというのもあるが、もう一つ理由がある。興味はあるけど怖くて出来なかった「世の中への発信」をやってみようと思った。そのほうが自分の世界が広がるはずだと。

6年お世話になる中でまあまあ社内評価をいただいていたが、マーケットに晒されずに生きてきた。周りから何か言われるのが怖くて、発信するのを避けてきたのだと思う。安全地帯にいる事をずっと選んでいたが、その事が自分の世界を狭いものにしていた。他の方が書いた退職エントリがバズってるのを見て、書くか否か相当迷ったが、書くことにした。自分も会社も実名を出すので、どんな反響があるか読めなくて怖い。が、30代前半を変化の激しい環境で過ごして、どんな内面の変化が起きたかを書いて、読者からどんな反応があるかを知りたいと思った。読んだ人が、何か新しい行動を起こしたくなる様な文章になっていると嬉しい。



在籍時の会社の変化

ぼくは2012年9月に29歳で入社したが、当時は社員数50名以下。退職時は1000名超えてた。ざっと6年で20倍。事業は2つしかなかったものが、10個以上ある。組織における最適な運営方法はサイズによって決まるが、サイズが絶え間なく大きくなるので、非常に変化が早くて激しかった。組織階層、人事制度など、社員がプレイするゲームのルールは何回か変わったし、それに従いどういうタイプの人材が評価されるかも変わる。一番の学びは「どんな状況・役割でも大活躍できる人間などいない」ということ。他の人を見ていてもそうだし、自分自身の体験からもそう言える。ぼくは細かくカウントすると6年で10部署以上異動したが、大活躍した部署もあれば、情けなくなるくらい成果を出せなかった事もある。



やってきた仕事の振り返り

29歳でサーバーサイドエンジニアとして入社し、30歳で海外事業のリードエンジニアになり、31歳で海外事業の事業部長を任せてもらえ、全く結果を出せずに国内事業法人営業に異動し、そこでも全く結果を出せずに32歳で営業企画になり、33歳でプロダクトマネージャになり、管理職になり、経営企画的な役割になり、34歳でまたプロダクトマネージャに戻り、35歳で退職。我がことながら、せわしないな。各職種で経験した仕事自体、とても面白かった。ただ、社外秘が多いので、具体的には書けない。その代わり、事業や組織が急成長する中で、自分がどんな壁にぶつかり、価値観がどう変わったのかを追ってみたい。

大まかにチャプターを分けるとこんな感じになる。

1章. 技術力を付けるが大命題
2章. 成果&出世しか頭にない
3章. 挫折&自己嫌悪の社内ニート時代
4章. 社内に自分の興味を見出す
5章. なによりも自分を優先



1章. 技術力を付けるが大命題

29歳でエンジニアとして入社したが、正直技術力は微妙だった。手を動かした時期は延べ1年にも満たないし、コンピューターサイエンスも学んでいない。Tech系で生きていこうと思っていたので、自分の腕の無さは良いモノを作る上でボトルネックになると自覚していた。なので、最初の1年はとにかくプログラミングに集中!と思っていた。ぼくの入社当時はベテラン凄腕エンジニアしかおらず、力の差をまざまざと見せ付けられた。ぼくが1日掛かる仕事を、30分くらいで瞬殺されたり。彼らとの能力差を埋めようと色々な仕事をしたし、インフラ・サーバーサイド・フロントと一通りは触った。おかげで、そこそこはエンジニアとしても仕事ができるようになったし、海外事業のリードエンジニアにもなった。

ただ、一向にベテラン凄腕エンジニアに勝てる気がしないのだ。彼らは根っからTech好きだし、空き時間や余暇でも何かしらモノを作ってる。一方、ぼくは仕事では触るものの、余暇で触るくらいの熱量はなかった。元々実力差がある上に、学習量も負けていたら追いつきようがない。30歳をすぎて、自分のキャリアを考え始めたときに、海外事業の事業部長をやらないかと役員から打診があった。ぼくは渡りに舟と思って、これに飛びつく。



2章. 成果&出世しか頭にない

ぼくの同い年は優秀な人が多かった。この時のぼくは「自分が同い年の中で何位にランクされてるか」「この仕事で成果を出せばあいつを上回れる」みたいなことばかり考えていたのだと思う。海外事業という難易度が高い案件で成果を出せば、あいつらごぼう抜きだぜ!みたいな下心は確実にあった。それを丸出しにするとみんなに嫌われるから、謙虚なふりをしてたけど。自分で書いてて自分の小物感が泣ける。

そんなこんなで事業部長をやり始めたが、全く成果が出せない。事業課題はセールスサイドにあり、マーケットは海外で、使う言語は英語。3つも得意領域でないモノが重なると、人間は無能になる。おまけに経営者の仕事をまるで理解していなかった。経営者は全てを決められる代わりに、全てに責任がある。自分がやっていない事でも全く知らない事でも、配下でなにか起こったら自分の責任になる。売上が上がらないことも、顧客からのクレームも、結果が出なくてみんながイライラすることも、イライラが溜まって起こるチームの揉め事も、全部自分の責任なのだ。しかも、問題は多発するくせにどれもこれも模範回答がない。しかもしかも、やってみるまで施策が合ってるかどうか分からない。

社員の責任は極めて限定的なので、「それはぼくの仕事じゃないです」と言える。「ぼくの仕事じゃない」と言えないのはとても苦しい。知らない分野で意思決定するのは怖い。ぼくは怖かったので、意志決定を先延ばしにする。そうすると問題は悪化する一方で、悪化するとまた意思決定したくなくなる。見ないふりをする。また問題が大きくなっていく。意思決定するのがどんどん辛くなる。まさに負のサイクル。

これはぼくの仮説だが、結果を出してる経営者でも意思決定するのは怖いのだと思う。ただ、結果を出してる人は怖くても意思決定をする。ぼくは怖くて意思決定をしなかった。「怖いけどやる」と「怖いからやらない」の差は、想像以上に大きい。虚栄心・承認欲求・達成意欲は、「怖いけどやる」ための原動力にはならなかった。ぼくの場合は。

事業部長を任せてもらい10ヶ月経っても全く結果は出せない。焦りと自責の念で空回りし、どんどん自信を喪失していった。上に立つ者がこの有様では、事業など上手くいくはずがない。見かねた経営陣が、セコンドからタオルを投入してくれた。ぼくは事業部長の任を解かれることに。任せた側からすると無理を承知でチャレンジアサインしてみたら、やっぱり無理だっただけだと思う。でも、無理と思いつつ期待を掛けてもらったことに自分は応えたかったし、それに応えられない自分が本当に情けなかった。

任を解かれた後、情けないやら悔しいやらで、シンガポールオフィスで独りで号泣していた。この悔しさを忘れないように、泣き腫らした顔を鏡越しに撮影した。その写真は今も大切に保存してある……訳ではなく、iPhoneを水没させた時に消えてしまったw なので、このエピソードのエビデンスは皆無。真実だと証明するものは何もないが、真実であると言い張っておく。



3章. 挫折&自己嫌悪の社内ニート時代

国内法人営業部に異動したが、異動後1週間もしないうちに会社に行けなくなってしまった。精神状態が悪い時に、新しいこと・慣れないことを始めるもんじゃない。出勤時間になると急に具合が悪くなるのだ。3週間くらい会社にいけなかった。その後、社長と当時の上司と面談をして、最前線のセールスではなく営業企画に異動&残業は絶対しないことになった。心療内科にも行ったが「仕事の負荷が高かったことが原因の一時的な反応です。鬱ではないです」と言われた。ホッとしたと同時に、内心いやな気持ちになった。病気じゃないとしたら、自分と向き合わなきゃいけない。本当に不謹慎な話だが、言い訳の材料を取り上げられた感覚だった。そんな事を考えてしまった自分を、最低な人間だなと自己嫌悪した。

とはいえ、全くやる気が出ない。周りの人達がみんな、自分の事を腫れもの扱いしてる様に思えて、いたたまれなかった。やる気に満ちている人とは極力話したくなかった、自分が惨めに思えてくるから。facebookでかまってちゃん投稿をしたら、みんな慰めてくれた。そんな事をしてしまった自分をまた嫌いになった。何回も会社を辞めようと思った。その度に踏みとどまったのは、「今辞めたら同僚と街ですれ違った時に絶対顔を背けてしまう」と感じたから。本当にただそれだけだった。この時期の思い出話になると、仲のいい同僚からは「あの時は目が死んでた」と、今でも言われる。

9時に出社して、ぼーっとして、18時に帰る。9時間なにも生産的なことをせずに過ごすのは、意外と辛い。異動から2ヶ月くらい何もせずにいると、ちょっとずつ仕事がしたくなってくる。その時に社内の請求書処理プロセスに問題があるから、調査してくれという依頼が来た。ややこしい問題だから、期限は切らないからと。日中ただぼーっとしてるのも正直辛かったので、言われるがまま着手。この仕事がぼくにとっては良かった。

社内業務はヒューマンオペレーションとシステムが複雑に相互作用している。ぼくの場合、システムで何が起きてるかはDBやソースコードを見て正確に理解出来るので、人間が何をしているかさえ正確に把握できれば、問題点が分かる。ただ、人間が何をしてるか正確に把握するのは、結構工夫がいる。ヒアリングだけでは、事実が特定できない。話者の認知が歪んでる場合もあるし、都合の悪い情報を敢えて言わないこともある。自分で書いた業務フロー図と、各人の発言の整合性を細かくチェックし、矛盾点をまた確認する。そういう地味な仕事を続ける時間があったし、「物事がなぜそうなっているか」を知りたい自分の性格やスキルセットに合った仕事だった。この仕事は成果を出せた。

すると、別の仕事が来る。Salesforceエンジニアが全然いないから、やって欲しいと。最初は全く乗り気ではなかったが、ニーズがあるならやってみるかと思い直して着手することに。結果的にこれも良かった。当時のぼくはSalesforceに関して「UIがごちゃごちゃしてよう分からん業務システム」くらいの認識しかなかったが、触ってみて少し経つととんでもないプロダクトだと分かった。ダッシュボード、レポート、カスタム開発など、ユーザーとして触って、中身がどうなってるかすぐに想像が付かない機能が多かった。ここに顧客データが全部あるから、ここに売上・契約の情報を寄せたら、精緻なデータを使ったPDCAが素早く出来るのでは。自分で企画・実装・社内向けCSを全部やり、社内業務が効率化していくのが楽しかった。いつの間にか仕事が楽しいと感じるようになるまで、自分の状態が良くなっていたのだ。



4章. 社内に自分の興味を見出す

ステークホルダーが多くて、プロダクトだけで完結せず、オペレーションが複雑。こういうイシューを嫌う人は多い。施策に時間が掛かるし、成果が数字で出ないから評価されにくい。あとは直接売上にも繫がらない。ぼく自身は回り回って売上に繋がると信じているが、論理的な説明が極めて困難なのだ。スタートアップはせっかちさんが多いので、時間が掛かって売上に繋がらない仕事など、興味を持つ人が本当に少ないのだ。ただ、ぼくにとっては、システムのロジックと人間の非合理性が混在しているイシューは、興味深いテーマだった。難解なものが分かっていくプロセス自体がどうやら好きらしい。会社での出世はもう諦めていたので、評価されるかどうかは大して気にしなくなっていた。

この時期はプロダクトマネージャになったり、経営企画になったり、所属する部署は変わったが、本質的にやろうとしていることは同じだった。ある時はB2Bマーケとセールスの滑らかなバトンタッチを実現する為に、MAとSFAをみんなで全社推進したり。ある時は営業事務のマネージャになって、メンバーがパンク寸前の状態を紐解いて、業務切り分けをしたり。ある時はカスタマーサクセスのボトルネックを探しに行って、ゼロから新しいプロダクトを作ったり。この時期にやった仕事は、会社も必要としていたし、自分に向いてもいた。

人間は慣れたルーティンを変えるのを嫌がる。外から来る人間にしたり顔で正論を言われても、全く聞き入れられない。中の人を巻き込んで、一緒にやったと心から思ってもらう為に行動する。数字で成果が出ない仕事でも、きちんと意味・意義・因果関係を解説して、社内から評価を勝ち取っていく。ぼくは成果が数字で出ない複雑な仕事が好きだが、当然一人では何も出来ない。一緒にやってくれる人を集めるところから始めたこともある。ぼくが「やりたい」と言い出して始めた仕事に参加してくれた人達には、絶対に「関わって良かった」と思ってもらいたい。

数字で評価が出にくい仕事をしている時の評価は、上長の印象で全部決まる。なので、ぼくは上長の印象を意図的に上書きしようとした。用いる材料はロジック、ストーリー、現場の声、チームの一体感など。会社内でやる仕事である以上、メンバーが「関わって良かった」と思うかどうかの決め手は、上から評価してもらえるかどうか。ほかも大事だが、評価は絶対に欠かせない。数字に出ない仕事の価値を上にどう伝えるか、にずっとこだわっていた。参加してくれたみんなの頑張りもあって、この時期はそれぞれ別のプロジェクトで、3回全社で表彰してもらえた。いい思い出だ。



5章.なによりも自分を優先

裏方の仕事を一通りやり切ったなと感じ始めていた頃、気づいたことがある。結局裏方仕事が存在するのは、事業が成長しているから。次は仕事がたくさん生まれるくらいの事業を自分で創りたい。そう思って再度新規事業にチャレンジした。世の中に出せる形に仕上げたまでは良かったが、正直「仕事がたくさん生まれるくらい」のスケールにはなりそうもなかった。なにが物事のスケールを小さくしてしまったのか。考えていけばいくほど明確だった。自分に原因があると。

それまでの自分の仕事の選択は、個人のキャリアにおいては「比較優位」で、会社での位置付けは「全体最適」だった。比較優位も全体最適も発想の起点は他者だし、見ている範囲は社内。逆に新しく素晴らしいサービスを創るには、ユーザーだけを見た極端な視野狭窄、狂ってるほどの思い入れ、非合理なほどのこだわりの方が重要になる。正直いまの自分にはどれもない。そう思った。まず最初に同じ組織の仲間を見て、そこから相対的に自分の立ち位置を決めている限り、強烈な自我は邪魔にしかならない。

プライベートでも転機があった。結婚だ。式で3世代集まった写真を見て、人間の営みは世代を越えた繰り返しだと感じた。そして、両親や義理の両親と話していて感じたのは、人生は物語そのものだと。物語を書き始める前は無数のシナリオが存在するように思えるが、書き終えてから振り返ると1つしか道はできていない。1人の人間が歩める道は、あとから振り返ると1つだけ。1つを選ぶと言うことは、裏を返すとその他大勢のシナリオを全部捨てることを意味する。「比較優位」「全体最適」で自分の行く道を選び続けて、じいさんになった自分がその道を見て納得できるのか。正直答えはNoだった。であれば、どうすれば納得できるのか。自分に正直になる以外にない。自分に正直になるためには、「比較優位」「全体最適」は邪魔になる。まずこいつらを捨てようと思った。

職場を変える、と言う選択は重かった。ただ、6年も同じ職場にいると「自分がした振る舞いで誰がどう思うか」を反射的に分かってしまうし、周りの期待も感じ取れてしまう。「比較優位」「全体最適」で半ば自動化されてしまった自分の思考回路も捨てられない。ただ、辞めるという事は積み重ねた信頼・居心地の良さを全て捨てる事を意味する。相当悩んだ。妻にも相談した。悩みに悩んだが、辞める事にした。積み重ねを捨てたとしても、ぼくは新しい自分を見たくなってしまったのだ。退職交渉中、決めた後の挨拶で話した方は全員、応援してくれると同時に惜しんでくださった。ありがたいと心底思った。

新しい職場は、自分の興味を追求することが、結果的に組織の利益と結びつく場所がいいと思った。なので、そう言う場所を選んだつもりだ。近日、気が向いたら公開する。気が向いたら。

起業は正直考えなかった。全く気が乗らなかったので。会社の中で、守られた砂場の中でとはいえ、経営者ごっこをさせてもらって感じたのは、経営には辛くてめんどくさい仕事がたくさんあると言うこと。資金調達したり、予算を決めたり、売上を追ったり、社員を評価したり、部下の給与を決めたり。会社にとって本当に重要な行為であるのは理解している。でもそれらの仕事単体は、今の所好きになれそうもない。自分がどうしても実現したい事に、経営が付いて回るのなら引き受けられるが、それ以外の状況では踏ん張れる気はしない。であれば今はその状況ではないから、わざわざ選択する必要はない。自らの人生を投じる場合、一番重要なステークホルダーは自分だ。なので、自分の気が乗らないのであれば、起業の選択肢は今取るものではない。



最後に

好きなように書いていたら、超長文になってしまった。時間を作って読んでくださった方、本当にありがとうございます。

書き終えてから振り返ると1つしか道はできていない。できた道を振り返ってみて、すごく納得している。「過去は否定しない」がぼくのモットーなので、自分がした良いこと・愚かなことを両方書いておきたいと思った。ビズリーチに入社した際は、他社からも内定をもらっていたが、敢えてビズリーチを選んだ。理由は将来の予測が全く付かないから。何が起こるか、自分がどうなってるかさっぱり予想できなかった。結果こうなった。後悔は全くない。書き上げた文章を読み返しても面白かったと思っている。

他の会社ではさせてもらえない経験ばかりだった。嬉しいこと、辛いこと、両方の振れ幅が尋常ではなかった。ビズリーチに来ていなかったら、きっとこういう考えを持つに至ってない。積み重ねた経験が人間を作っていく。いい友人もたくさんできた。友人達が面白がって読んでくれたら本当に嬉しい。ビズリーチには本当に感謝しているし、所属企業は変わっても応援している。

勝手に社名を出してしまったお詫びとして、ビズリーチの採用ページを貼っておく。この記事を読んで応募する方が増えるかどうかは謎だが、アクセス数増加に少しは貢献できるはず。ぼくの経験と同じ事は起きないと思うが、まだまだ面白い仕事はたくさんある。



所属する会社を選ぶという行為は、自分の物語を作る舞台をどこに設定するかということ。各人がそれぞれの物語を生きているし、どんな選択があってもいい。そして、物語が進むと舞台も移り変わっていく。約6年も物語が進んだのに、ぼくの物語の舞台はその間ずっとビズリーチだった。本当にご縁があったとしか表現しようがない。

これを読んでくださっている皆さんも、自分が作った物語を後から振り返ってみて、「面白かった」「良かった」と思えるような舞台を選んで欲しい。それが一体どこにあるのか、答えは自分自身の中にしか存在しない。ぼくは今まで、周りを気にし過ぎていた。人はみな、己の心が指し示す方向に進んでいい。ぼくは今後そうやっていくつもりだし、そういう人がもっと増えて欲しい。

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