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今までの人生で、最も美しい瞬間

第一子が誕生した。「誕生した」と言う言葉だと、あっさりし過ぎてて全然状況を正確に表現できてない。

命を懸けた仕事など、そうは見れない

「妻が自分の命を張って、ぼくたち夫婦の子供を産む役割を全うした」くらいの表現でも、まだまだ解像度が粗いのではないかと思ってしまう。入院した病院は立ち会い出産を許してくれたので、運よく陣痛→分娩のプロセスを間近で見させてもらったが、本当に凄かった。この社会の中で「命を懸けた仕事」など、間近で見られるもんじゃない。自分の身近な人が、妻が、命を懸けて出産を完遂しようとする姿は、ぼくが五感を通して体験した出来事の中で、一番美しかった。母となる人が、生命誕生に伴う全ての痛みを引き受けてくれるんだなと、「敬う」「崇める」気持ちが湧き出てきた。

一言で言うならば「神々しい」のだ


妻への尊敬が100倍くらい増幅された

陣痛開始から分娩まで24時間以上掛かったが、そのうち17時間くらいを同じ部屋で一緒に過ごした。が、途中段階では本当に終わりが見えない。5分ごとに妻が苦痛でもがき、のたうち回る。身近で見ている男は本当に無力。代わりもできない、痛みも緩和できない、長引く出産を早めることもできない。機能面で言うと、出産立ち会い時のぼくは完全に無能だった。

しかし、自分の無能を感じるにつれ、不思議と感情の種類が変わっていくのを感じた。

1. 「めちゃ痛がってるのに俺は何もできん……」という絶望から始まり、
2. 「すごいな」「よく耐えられるな」という尊敬に変わり、
3. 「この苦労がなんとか報われてほしい」という願いが産まれ、
4. 「この人の助けになるならどんな些細な事でも貢献したい」という意志が出てきた

「自分に絶対できない仕事を成そうと挑む人間への尊敬」とでも、表現すればいいのだろうか。元々妻のことは尊敬しているつもりだったが、その量が100倍くらい増幅された。


無能だとしても、戦う人間に勇気を与える事はできる

出産において自分が無能だとは早々に理解できたので、この局面で自分が唯一できる&すべきことだと考えたのは「妻を精神的に1人にしないこと」だ。イメージとしてはボクシングのセコンド。戦うのはあくまで本人で、それ以外の人間はリングに上がれない。ラウンドの最中は本人が戦うしかない。でも、セコンドは休憩中に水を飲ませたり、励ましたり、状況を教えてあげたりする。戦う人間のそばに居て、勇気を与える役割に徹しよう。途中からそう考えるようになった。

ちなみに出産というリングに立つ妻のセコンドを務める際に、持つべき心構えがいくつかあるように思う。

1. 本人が戦っている限り、セコンドが後ろ向きなことを言わない
2. ただし、本人の弱音はきちんと受け取る
3. 何が欲しいかまず聞く。パターン学習できたら先回りで提案・実行
4. 求められない限り、自分の意見は絶対言わない
5. 命の危険が及んだら、タオルを投げる

出産というリングに上がる妻を最大限リスペクトする。そのWhatをベースにHowを組み立てると、上記5個みたいになった。


健康に産まれてくる事は本当に運が良い

上記で書いた「命の危険が及んだら、タオルを投げる」について。コウノドリと言うドラマを見ていて、出産時の最悪の事態の想定はいくつかしていた。妻か子かの二択を問われる重大な局面になったら迷わず妻を選ぶ。ぼくはそう決めていた。しかし、幸いにも妻子ともによく頑張ってくれて、タオルなど投げずに済んだ。大げさに聞こえるかもしれないが、出産で誰も死なずに済んだと言うのは、これ以上望むべくもない僥倖なのだ。テクノロジーが発展した現代においても、生命の誕生は分かっていないことの方が多いし、自分達の意志でコントロールできない事が多い。

そして、自分達の意志でコントロールできないにもかかわらず、物事がうまくいった時、ぼくは「本当に運が良かった」と考えるようにしている。そもそも無事に産まれた事自体、既に運が良い。そして、大人になるまで成長でき、パートナーと結婚でき、子供に恵まれる。日本では多くの人が経験しているので、感覚が麻痺しているかもしれないが、こう言う出来事は当たり前ではない。運が良いのだ。

世界から幸運をもらっている人間は、周りにそれ以上返すべき。身近な妻子・親兄弟に返すことを忘れず、仕事を通じて世の中に返していきたい。


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